司馬の八達(しばのはったつ)と言われた俊英達のひとりである司馬朗(しばろう)。
彼は超厳しい父親に育てられて育っていきますが
暴君となった董卓(とうたく)に捕まってしまいます
あの手この手を使って彼の元から離れ郷里へ帰ってきます。
そして郷里に到着した彼は住民達へ提案するのですが、
彼の提案に従わなかったばっかりに大変なことになってしまうのです。
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超厳しい父親に育てられる
司馬朗には超絶厳しい父親がおりました。
その父親の名前は司馬防(しばぼう)と言います。
彼は京兆(けいちょう)尹などの官職を歴任した後漢王朝の高官でした。
そんな彼は家に帰ってきても威儀を崩さず、
くつろいでいる時も威儀を正していた自分に厳しい人物でした。
司馬朗や司馬朗の弟である司馬懿はこの父に厳しく育てられ、
父が座れと言われるまでずっと座ることができず、
父の前で話すときも父から名指しで質問されるまで話すことは禁じられておりました。
このような厳しい家庭に育った司馬朗は父と一緒に洛陽へ向かうことになります。
董卓に捕まる
司馬朗は父と一緒に洛陽へ到着するとこの地で過ごしておりましたが、
暴君・董卓(とうたく)が洛陽へ登場すると状況は一変してしまいます。
彼は洛陽を焼き払って長安へ遷都することを家臣達に告げて、
住民達を先に長安へ強制的に移住させてしまいます。
司馬防は司馬朗に「家族を連れて郷里へ帰れ」と命令。
司馬朗は家族を連れて洛陽から逃亡していきます。
董卓は司馬防の息子である司馬朗が逃亡したとの報告を聞くとすぐに彼をとっ捕まえて、
司馬防の元へ帰してしまいます。
賄賂を送って郷里へ帰る
司馬防は董卓が滅びることになると予想し、
洛陽にいる董卓子飼いの役人へ賄賂を贈って逃亡を図ります。
董卓子飼いの役人は、
司馬朗からの賄賂を受け取り彼をこっそりと洛陽から逃がしてしまいます。
こうして司馬朗は家族を連れて郷里である河内(かだい)へ逃亡することに成功するのです。
長老へ提案するも・・・・
司馬朗は河内の実家に帰るとすぐに住民達の代表である長老達を集めて提案します。
彼は長老達へ「董卓は天下の諸侯から恨みを買うことばかりを行い、
彼を討伐するために兵を挙げることになるでしょう。
討伐軍が董卓を一気に攻め滅ぼすことができればいいのですが、
もし董卓を攻め滅ぼすことができずに滞陣することになると
必ず彼らは洛陽の近くにある河内に駐屯することになるでしょう。
連合軍達は寄せ集めであるため、軍令が行き届いていない可能性が高く、
民衆達にもしかしたら危害を加えるかも知れないでしょう。
この時に住民一人ひとりが軍兵に逆らう事などできるわけがありません。
そこで私は一族の親戚が兵を率いて黎陽(れいよう)に駐屯しているので、
住民の皆さんに一族を率いてこの地へ移住すれば安全であると私は考えます。」と
提案します。
しかし住民達は生まれ育った故郷を捨てることができないと反対し、
司馬朗は家族を率いて親戚のいる黎陽へ移り住むことにします。
三国志ライター黒田レンの独り言
さて河内の住民達はその後どうなったのでしょうか。
董卓を滅亡させるために反董卓連合軍が結成されますが、
董卓を滅亡させることはできませんでした。
連合軍は洛陽の近くに有る河内の地にも駐屯することになるのですが、
軍兵達は行儀が悪く河内の地の住民達から略奪を行い、
逆らった者は殺害されてしまいます。
そのため河内に住んでいた住民の半分が殺害されていなくなってしまったそうです。
司馬朗の予想通りに展開してしまったため、
「あの時に司馬朗の進言を聞いていれば良かった」と
残った住民達はすごく後悔したのではないのでしょうか。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など
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