司馬防とはどんな人?三国志の星一徹?スパルタ教育は息子達を将軍にするためだった?

2022年7月1日


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司馬師と司馬懿

 

どんな家庭にも、その家の家風というものがあります。例えば親が公務員や銀行員だと子供もその影響でキッチリした人間になったりします。三国志の時代にも、そういう事はあり司馬懿(しばい)の父、司馬防(しばぼう)は息子達に厳しいスパルタ親父でした。

 

では、どうして司馬防はスパルタだったのでしょうか?

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬儁の子として誕生

司馬防

 

司馬防は西暦149年、司隷河内郡温県(しれい・かだいぐん・おんけん)穎川(えいせん)太守司馬儁(しばしゅん)の子として誕生します。

 

司馬氏はキングダムにも登場する司馬尚(しばしょう)の子、殷王司馬卬(いんおう・しばぎょう)の末裔であり、司馬防の曾祖父馬鈞(しばきん)左馮翊(さひょうよく)で征西将軍を代行して西羌を撃ち破った将軍でした。

 

馬に乗って戦う飛信隊の信

 

ただ、司馬鈞の人生は平穏とはいかず、自分の命令を無視して敵の罠にかかって窮地に陥った部下を救援せず見殺しにした罪で獄に下され自殺しました。

 

このような家柄で、司馬防は質実剛健に成長し、寛いでいる時も姿勢を正して座り、鼻をほじるとかおならプーするとか、冗談を言うとか、そういう事もなかったようです。

 

司馬朗と司馬防

 

8人誕生した子供に対する接し方も非常に厳しく、息子達が成人して後も許可がなければ部屋に入れず、座れと言わない限り座れず、話せと言わない限り口を聞いてもいけないスパルタぶりでした。

 

だらしない親父もイヤですが、だからって冗談も言えない厳しい親父もなんだかなって感じです。司馬懿も冗談が通じないイメージがありますが、それは父、司馬防の影響かも知れません。

 

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曹操を洛陽北部都尉に推挙する

怒る曹操

 

司馬防は尚書右丞(しょうしょ・うじょう)の官に会った頃に孝廉(こうれん)に挙げられていた若き曹操を洛陽北部都尉(らくようほくぶとい)に起用しています。

 

洛陽北部都尉というのは役職名ではなく、当時の洛陽城に東西南北4カ所あった城門の北門を守る警察官兼軍人のような存在でした。銅銭1億枚で太尉の地位を買う父を持つ曹操からすれば、北部都尉は端役(はやく)でしたが曹操は全力で職務を遂行しました。

 

腐り落ちていた北部門を修理し、有名無実と化していた夜間通行禁止の鉄則を復活させると、門の内外に五色棒(ごしきぼう)と呼ばれる棍棒を何本も下げ、「夜中に門を通る者は法により叩き殺す」と貼り紙を出したのです。

 

処刑を下す曹操

 

しかし、当時、霊帝の寵愛を受けていた宦官蹇碩(けんせき)の叔父が「曹操に恥をかかせてやろう」と堂々と夜中に北部門を通過しようとします。もちろん曹操は「私は蹇碩の叔父だぞ!」と(わめ)く男を容赦なく刑罰台に乗せると五色棒で何度も叩いて撲殺。

 

この話を聞いて洛陽のパリピは震え上がり、夜中に北部門を通る人間はいなくなりました。

 

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司馬防が、曹操の性格を知った上で推挙したかは不明ですが、曹操が栄転の形で北部都尉から飛ばされた時も司馬防はお咎めなしでした。

 

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司馬朗に命じて家族を故郷に避難させる。

 

西暦190年、司馬防は治書御史(ちしょぎょし)に任命されました。この役職は御史台(ぎょしだい)に属し、法律に基づいて疑獄事件の処理を担当する仕事だそうで、厳格な司馬防に向いています。

 

前年より、董卓が霊帝死後の混乱を制して洛陽を支配し少帝を廃して献帝を擁立し専横を極めていました。

 

董卓

 

反董卓連合軍が起きたので、董卓は洛陽遷都を決意し、司馬防は家族もろとも長安に移動する事になりますが、司馬坊はろくでもない結末を予期してか長男司馬朗(しばろう)に命じて家族を故郷の温県に帰還させようとします。

 

司馬朗と董卓

 

ところが、この会話が漏れていて、何者かが司馬朗は洛陽から逃げようとしていますと讒言(ざんげん)したので司馬朗は董卓に捕まり、あやうく殺される所でしたが赦され、司馬朗は董卓の周辺に賄賂をばら撒いて買収し、何とか一族が逃げる事に成功しました。

 

 

グズグズして長安にいたら、間もなく起きた李傕と郭汜の暴政で司馬兄弟も何名か犠牲になったかも知れませんからナイスな判断です。

 

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曹操孟徳

 

 

魏王になった曹操に、俺を端役に飛ばしたなと言われて

司馬朗と曹操

 

その後の経緯は不明ですが、司馬防は州郡に取り立てを受け、洛陽県令や京兆尹を歴任し老年になると騎都尉に転任しました。引退後は、自分の生き方を守り故郷に引っ込んで門を閉ざし晩年を過ごしたそうです。

 

曹操が魏王に就任した時、司馬防を鄴まで呼び出して昔話をした事があり、その時曹操は「今でも私を()に推挙するか?」と聞いたそうです。

 

司馬防は「昔、王を推挙した時は、その官職がちょうど良かったまでの事でございます」と返答。曹操は大笑いをしました。

 

承諾する曹操

 

曹操としては

 

「俺を端役に飛ばしやがって、魏王になった今でも同じことを言うか、どうだ?」と出世した自分に司馬防がどう反応するか見たかったのですが、司馬防は「あの頃のやんちゃなあなたには門番の隊長が適任でした」と何もお世辞を言わずに言い返したので、お前は昔と変わらんなと大笑いしたという話です。

 

ちなみに曹操と司馬防は、司馬防が6歳上なだけで、そこまで年が離れているわけではありません。

 

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どうして老年になって騎都尉になったのか?

年を取った司馬懿

 

厳格な性格で、まっすぐに人生を生きた司馬防ですが1つだけ分からない事があります。司馬防は老年になってから騎都尉(きとい)に転任したという一文がある事です。

 

騎都尉は皇帝直属の羽林騎(うりんき)中郎将(ちゅうろうじょう)と統括する仕事で、そういう仕事の性質上、馬に乗ったり仕事としては肉体を使う老年にはしんどい作業です。

 

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

ずっと検察官や長安の都知事のようなデスクワークをしてきた司馬防がどうして、老齢になってからそんな180度違う仕事に就いたのか?そう思って色々調べてみると騎都尉になると、西域都護(せいいきとご)の役職が加えられる事が分かりました。

 

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星一徹のように息子に将軍の星を目指させた?

流星を見た司馬懿

 

西域都護は長安からシルクロードに向けての異民族を統括する地位で、後漢では班超(はんちょう)が有名です。

 

また、司馬防の曾祖父の司馬鈞は左馮翊の役職で、京兆尹(けいちょういん)右扶風(うふふう)と共に参議にも参加し、8000騎を率い羌族を撃ち破った経歴を持ち行征西将軍にもなりました。

 

順調に将軍まで出世する陳武

 

もしかして司馬防は曾祖父に憧れ、曾祖父が成れなかった征西将軍や班超がついた西域都護になるのが生涯の夢だったのではないでしょうか?

 

だからこそ、若い頃から自分を厳しく律し結婚後は、スパルタ教育で息子達を鍛え、自分は無理でも息子の代には、司馬氏から将軍を出そうと考えていたのでは?

 

司馬防は西暦219年、71歳で死去します。

 

通典(つでん)によると次男の司馬懿は西暦232年に征西大将軍になっています。司馬懿にとっては高祖父、司馬鈞が代行に留まった征西大将軍への就任ですが、死んだ司馬防もやっと我が家から将軍が出たと厳しい顔を緩めたかも知れませんね。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

司馬懿は三国志演義では軍師風ですが、史実ではどんな強行軍でもビクともしない頑強な肉体を持つ将軍として活躍しています。それはたまたまかと思っていましたが、司馬防のスパルタ教育の目的が我が家から将軍を出すためだとしたら、なんだか辻褄があってしまいませんか?

 

スパルタ親父司馬防は、意味もなく厳しかったのではなく、星一徹のように息子達を将軍の星にしたかったのです。多分…

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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