防御力ゼロ、住民もほとんどいない城であった合肥(がっぴ)城。
しかしこの合肥城に一人の役人が赴任したことによって、
防御力ゼロで、ほとんど無人であった合肥城が、
鉄壁の合肥城へと進化することになります。
その役人の名を劉馥(りゅうふく)と言います。
彼は合肥城へ赴任すると城壁を修復して魚油を蓄え、
敵の厳しい攻撃にも耐えることのできる合肥城へと生まれ変わらせることになります。
今回はこの劉馥の一族である劉弘(りゅうこう)という人物をご紹介したいと思います。
彼も祖父・劉馥に似て非常に行政官として優秀な人物でありました。
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司馬炎と幼い頃からの友達であった
劉弘は司馬炎(しばえん)と同い年で、
司馬炎が住んでいた洛陽の永安里(えいあんり)に住んでいた人物でした。
そのため幼い頃から一緒に遊んでおり仲のいい友達でした。
司馬炎が曹魏を滅亡させて晋の初代皇帝として君臨すると
劉弘は司馬炎に呼び出されて仕えることになり、エリートコースを歩むことになります。
彼は晋の時代の末期になると車騎大将軍となり、幕府を開くことがゆるされます。
また荊州(けいしゅう)の刺史と荊州・広州・交州の軍事権を行使する権能を
与えられることになります。
十組の役人を派遣するより効果がある
劉弘は荊州一帯を治めることになります。
彼は司馬炎の友達であったから上記のようなとんでもない権力を有することになった・・・・
わけではなくしっかりと権力に見合った能力を持った人物でした。
行政面では民衆達に農業・養蚕を行うように奨励し、
部下達には厳しくも真心をもって接していきます。
さらに民衆達が徴兵されることになると、
自分の領内になる郡や国へ自ら筆をとって、
徴兵される民衆達をいたわる手紙を送り届けさせます。
この結果、民衆達は劉弘のために進んで受けて兵になり、
役人達からは「劉弘殿の直筆の手紙は十組の役人を派遣するより効果がある」と
彼を褒め称えていたそうです。
公正な人物である劉弘
劉弘は公平な人物としてしられており能力のある人物であれば、
娘婿よりも在野の人物を取り入れる人物でした。
彼の公平さが表れるエピソードをご紹介したいと思います。
晋の皇帝から「自らの裁量で人材を登用してもいい」と命令を受けます。
そこで彼は配下の将軍である皮初(ひしょ)を襄陽(じょうよう)の太守に。
また在野にいた伍朝(ごちょう)を零陵(れいりょう)の太守へ任命してもらうように推挙。
すると晋の朝廷から「皮初は名声や実績において劣っているのではないか。
君の娘婿である夏侯陟(かこうちょく)の方を襄陽の太守に任命しなさい」と
返答が帰ってきます。
劉弘は「私の娘婿である夏侯陟よりも皮初の方が能力のある人物であります。」と短く返答を返します。
晋の朝廷は劉弘の言葉を受け入れて皮初を襄陽の太守へ任命することにします。
俺は晋の朝廷を裏切ることをしない
劉弘が襄陽の太守に皮初を任命した頃、晋の国は大きく乱れておりました。
その原因は朝廷の政治の腐敗と王族達が、
朝廷に対して反乱を幾度も起こしていたことです。
こうした事態に広漢の太守であった人物が劉弘へ「君は荊州を統治している。
この地をもって晋から独立して地方の実力者達と手を握った方がいいのではないのか。」と
提案します。
劉弘はこの人物の話を聞くと「俺は晋の朝廷を裏切ることはない」と激怒して、
その人物を斬ってしまいます。
彼のこの行いに荊州の人々は大いに感心したそうです。
その後彼は荊州を乱れさせることなくしっかりと統治していたのですが、
病に罹って亡くなってしまいます。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉馥がいなければ合肥城は孫呉に取られていた可能性を考えると
彼が魏国を支える一つの基盤を作り上げたといっていいでしょう。
そして劉弘も晋の国をしっかりと支える基盤の一つを作り上げたといってよく、
彼の領土であった荊州はその後東晋に吸収されるのですが、
この国でも彼が統治した荊州は東晋のかなめとなる部分を担うことになるのです。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志魏書3 今鷹真・井波律子著など
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