黒田長政はすごい人?それとも親の七光りで出世した人?

2017年3月26日


 

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黒田長政

 

黒田官兵衛(くろだかんべえ)の息子・黒田長政(くろだながまさ)。父親は秀吉の天下取りを支えた稀代の軍師として天下で彼の名前を知らない人はいないぐらい有名な人物でした。

 

この父親の後ろ姿を見て育った長政。彼は関ヶ原の戦いの後、家康から従来の所領から三倍近くも所領をアップされておりますが、果たして彼は家康に実力で認められて手に入れたのでしょうか。それとも黒田官兵衛の今までの活躍に比べて処量が少ないから増やしてもらったのでしょうか。

 

今回は長政がすごい人なのかそれとも親の七光りで出生した人物なのかを検証したいと思います。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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黒田長政はすごい人だった

父に負けず勇猛果敢で智将だった黒田長政

 

結論から先に言いますと黒田長政はすごい人です。決して親の七光りで出生した人物ではなく自らの実力を徳川家康に示し、家康も彼の実力を認めた上で領地を三倍近くもアップさせてあげました。黒田長政が徳川家康に認められるような戦功とは一体何なのでしょうか。

 

 



徳川家康が認めた戦功その1:小山会談で福島正則に工作したこと

 

黒田長政が家康に認められた戦功のその1として豊臣恩顧の筆頭格である福島正則(ふくしままさのり)に対して家康へ味方するように工作した事が、大きいのではないかと思います。

 

長政は正則に対してストレートに「家康に味方しなさいよ」と説得したのでは、反対される可能性があるため、彼は側面から福島正則が家康に味方するように説得。長政は正則に対して「石田三成が豊臣秀頼(とよとみひでより)様を担いで、家康殿へ戦を仕掛けるらしいぞ。

 

あの頭でっかちは幼少で物事の分別がつかない秀頼様へ色々と吹き込んで、家康殿や俺らを討伐して天下を欲しいままにしようとしているのに違いない。正則殿は太閤殿下へ色々と俺らの讒言を行った三成へ味方するつもりじゃないだろうね。」と述べます。

 

正則は石田三成が嫌いきらいだっきらいでしたので、この点を突かれると正則は感情的に興奮してしまい何も考えずに徳川へ味方することを長政に伝えてしまいます。長政は一応正則に「では徳川へ味方してくれるのだな」と念押しで説得。正則は感情が興奮状態のまま長政の言うとおり徳川へ味方することを決意します。

 

会津にいる上杉家討伐軍を率いていた徳川家康は三成が反乱を起こしたことを知ると彼は諸大名を集合させて今後の方針を決める小山会議を開きます。家康はこの会議で自分に味方するか石田三成につくか迷っている諸将に対して判断を仰ぎます。

 

この時正則は大声で判断に迷っている諸将に対して「俺は石田三成を討伐して豊臣が正しい元の姿に戻すために徳川殿へ味方する」と叫びます。この正則の宣言によって諸大名は「俺も!!俺も!!」と真っ先に手を挙げて味方に付くことになります。もし長政が福島正則を事前に工作していなければ、徳川が関ヶ原に勝つことはできなかったかもしれません。

 

徳川家康が認めた戦功その2:小早川秀秋の寝返りを確約させる

 

徳川家康が黒田長政の戦功を認めた戦功その2として小早川秀秋(こばやかわひであき)の

寝返りを確約させたことも長政の戦功の一つと言っても過言ではないでしょう。

長政は関ヶ原の戦いが始まる前に西軍で最大規模の兵力を有している小早川秀秋へ

寝返りの説得を行っています。

秀秋は長政の説得に応じて関ヶ原では西軍から東軍へ味方したことがきっかけで、

西軍の諸将は壊滅することになり関ヶ原の戦いは東軍の勝利が確定することになるのです。

もし長政が小早川秀秋へ東軍へ願えるように工作していなければ、

関ヶ原の戦いは西軍が勝っていたかもしれません。

 

徳川家康が認めた戦功その3:吉川広家を東軍へ味方として引き入れた

 

徳川家康が認めた戦功その3は吉川広家(きっかわひろいえ)を東軍へ味方に引きつけたことが挙げられるでしょう。広家と長政は朝鮮の役の時に友人として仲を深めていった間柄でした。

 

しかし関ヶ原の戦いでは毛利本家の当主・毛利輝元(もうりてるもと)が、西軍の総大将として担がれてしまったため広家も西軍に味方することにします。

 

だが彼が東軍と西軍の状況分析を行った結果、西軍に勝ち目はないと判断。

そのため彼は東軍にいる友人である長政へ手紙を送って、

「私は現在毛利軍を率いて西軍に属しておりますが、東軍へ味方したいと思っております。

つきましては家康殿へお取次お願い申し上げます。」と綴ってある手紙が送られてきます。

長政はこの手紙を家康へ取次ぎ家康はこのことについては長政へ任せると伝えます。

そして長政は家康と毛利が寝返った時の条件などを詰めていくことになります。

この結果、毛利本隊を率いていた吉川広家は関ヶ原の戦いでは一切戦に参加しませんでした。

この時長政が広家から送られてきた手紙をスルーしていたら、

関ヶ原の戦いは明治時代に軍の教官としてやってきたメッケルの言った通り

西軍の大勝で終わっていたことは間違えないでしょう。

長政は主に上記三つの活躍を家康に認められたことによって、

17万石の領地しかなかったのを関ヶ原の戦い後、

一気に三倍近い54万石程度を与えれることになるのです。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

黒田長政は父の智謀を見て育ったため、官兵衛のような策略を使った活躍をしてみたいと

思っていたのではないのでしょうか。

だから関ヶ原の戦いでは諸大名へ工作を行っていたのではないかと考えられます。

この長政の謀略はかなりの成果を上げることに成功しており、

父官兵衛に見劣りしない活躍をしたのではないのでしょうか。

また智謀のみの武将ではなく戦になると周りが見えなくなるほど猪突猛進型の武将で、

自ら槍をもって乱戦の中へ突っ込んでいくような始末でした。

この点を父官兵衛に叱られているのですが、長政は治すことができずに関ヶ原の戦いでも

槍をもって石田三成軍へ突撃しております。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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