蜀の五虎将軍・趙雲(ちょううん)。
彼は劉備の配下として武勇面で活躍。
劉備が亡くなった後も孔明率いる北伐軍に参加して活躍した武将です。
非常に忠義の厚い人物なのは三国志が好きなはじさん読者なら知っていると思いますが、
彼と劉備が出会うことになったのは袁紹のおかげであったことを知っていましたか。
今回は劉備と趙雲が出会うことになったきっかけをご紹介していきたいと思います。
袁紹に嫌気がさして・・・・
趙雲は河北の常山出身の武将です。
ゲームなどで常山の趙子龍(ちょうしりゅう)見参。
などのセリフを聞いたことがあると思いますがこれは「俺は常山の趙雲だぞ」という意味です。
常山出身の趙雲ですが袁紹が冀州(きしゅう)の牧と称していたせいで、
常山の民衆は皆袁紹の味方をしてしまいます。
しかし彼は袁紹の味方となることに違和感を感じていたので、
常山で義勇兵を募って幽州(ゆうしゅう)を領有していた
公孫瓚(こうそんさん)に味方をすることにします。
苦笑いするしかなかった公孫瓚
公孫瓚は冀州の住民のほとんどが袁紹の味方をしていたにも関わらず、
趙雲が義勇兵を率いて自分に味方してくれたので大いに喜びますが、
自らが抱いていた疑問を彼へ尋ねるのです。
余計なことを尋ねないでそのまま彼を信用しとけばいいのに・・・・と思ってしまうレンです。
公孫瓚は趙雲へ「冀州の住民や常山の人々は全て袁紹へ味方したのになんで君は
私のもとへ駆けつけてくれたのかね」と疑問を尋ねます。
すると彼は「天下は騒然としており、誰が一体正しいのかわからない状態です。
私が住んでいた冀州の住民や常山の人々は名家出身の袁紹に味方しましたが、
私は殿に味方しました。
これはあなた様が正しいと思って味方したのではなく、
仁政を敷いてくれる可能性があると思って殿に味方したのです。
もし袁紹が仁政を敷いて領内を統治するのであれば、
私は袁紹の元に行くかもしれません。」ととんでもない返答を返します。
公孫瓚は趙雲の返答に対して苦笑いをするしかありませんでした。
劉備と出会う
趙雲は公孫瓚の配下として色々な戦場に赴くことになるのですが、
この時に同じ配下として活躍していた劉備と出会うことになります。
劉備と色々な話をして彼を気に入った趙雲。
劉備もまた趙雲に対して高評価を下して気にいっていたので、
二人はすぐに信頼関係を構築することになります。
しかし趙雲は兄貴が亡くなったことがきっかけで公孫瓚の元を離れることになります。
劉備は趙雲が帰国することを知ると彼の手を握って別れの挨拶を述べます。
すると趙雲は「私はあなたの元に必ず戻ってきます。」と言い残して去っていきます。
袁紹の元で再開する
劉備はその後公孫瓚の元を離れて袁紹に身を寄せることになり、
鄴(ぎょう)で懐かしい人物と再開することになるのです。
その人物とは趙雲でした。
彼は兄貴の喪が終わると各地を放浪した後、劉備が袁紹の元に身を寄せていると聞いて、
各地で義勇兵を募って劉備がいる鄴に帰ってくるのです。
こうして劉備軍に参加することになった趙雲は、
ここから歴史に名を残していくことになるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
もし袁紹が冀州の牧を称することをしなければ、
趙雲が公孫瓚に味方することはなかった可能性が高いので、
劉備と出会うことははなかったのではないのでしょうか。
上記のように考えると袁紹のおかげで劉備と趙雲が出会うきっかけとなり、
彼が居なければ公孫瓚の元へ趙雲が配下として参加することもなく、
劉備と出会うこともなかったように思うのはレンだけでしょうか。
皆様はどのように思いますか。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など
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