孔明と一緒に蜀の政権を支えた熟考型の人材ってどんな人?

2017年4月14日


 

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蜀の丞相として活躍した諸葛孔明

彼は優秀な人物を引き上げて抜擢し適材適所に配置して活躍させておりましたが、

彼と一緒に仕事を行った熟考型の人物をご存知でしょうか。

その名を董和(とうわ)と言います。

孔明は彼の才能を認めて褒めておりましたがどのような人材であったのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉璋に仕えた熟考型の人材

 

董和は後漢王朝が乱れると一族を率いて益州へ逃れることにします。

当時の益州のボスは劉璋(りゅうしょう)で、

彼から招かれて劉璋政権に参加することになります。

当時の益州は役人だけが乱れていたわけでなく、

金持ちも乱れており諸侯が着ているような服を来て街中を歩いていたそうです。

董和は劉璋から成都の令に任命されると自ら質素倹約に努めて、

粗衣粗食を率先して行い身分を超える贅沢を行いませんでした。

そして庶民には身分を超える贅沢を行うことを禁止する法令を施行。

この法令の結果、

庶民も贅沢を行うことをやめて庶民らしい生活を行うようになり、

風俗の乱れがなくなっていくことになります。

また異民族と協力して成都近辺を統治し、

誠意を持って接していたことから異民族からも信頼されていたそうです。

 

孔明と一緒に仕事を行う

 

劉璋は益州に侵攻してきた劉備軍に降伏すると董和は劉備に仕えることになります。

彼は劉備の片腕であった諸葛孔明と一緒に仕事を行うことになり、

無駄な政策をすべて廃止して、役に立つ政策を次々と進言していったそうです。

劉備軍に仕えること20年あまりに及び彼が行った政策は膨大な数でしたが、

彼が主におこなった政策は異民族の居住区をしっかりと決め、

内政においては政治の中枢に参画していろいろな進言を行います。

彼が亡くなった時には家に財産と呼べる蓄財はほとんどなかったそうです。

 

諸葛孔明の評価

 

孔明は董和が亡くなった後役人たちを集めて訓示を行います。

彼は部下達へ「君達役人は人々に意見をしっかりと求めることが第一である。

この意見を参考にして主君の利益を上げることが肝要である。

もし自分と違う意見を持っている者を遠ざけて検討することをやめてしまえば、

仕事に欠陥が出て損害を与えることになるので気をつけるように。」と訓示を下します。

その後自らの体験談をみんなに話したそうです。

彼は「先ほど私が話した訓示であるが、人が全て先ほどの事が出来るほど出来た人物は

そうはいない。

しかし私の友人である徐庶はこうした事をしっかりと行っていた。

また私の同僚である董和は仕事で不十分な点が発生したらしっかりと熟考した後、

私のところに来て相談を行っていた。

皆も徐庶を見習えとは言わない。

しかし董和を見習って仕事を行って欲しい」とお願いします。

こうして孔明の訓示と体験談を聞かされた役人たちは、

一所懸命に仕事に励んでいったそうです。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

孔明は側近にこのような事を述べておりました。

彼曰く「私は若い時に崔州平(さいしゅうへい)と付き合っていたが、

彼は私の欠点を度々指摘してくれた。

また徐庶は私に色々な事を教えてくれた。

董和とは一緒に仕事を行ったが、遠慮することなく私に色々な意見をしてくれた。

そして胡済(こさい)は私の行いに間違えがあるとすぐに注意をしてくれた。

私はボンクラだから全てを受け入れることはできなかったけれど、

彼ら四人とはしっかりと気が合った。

私は彼らの遠慮しない意見を言う姿勢にはほとほと感心せざるを得ない」と述べております。

董和が孔明に認められるほどの才能を持った人物である証左であり、

蜀を支えた人物として認められていたのではないのでしょうか。

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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