蜀(国家)が滅亡したら蜀の民や国に尽した人はどうなるの?

2017年4月8日


 

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「国破れて山河あり、城春にして草木深し」と唐代の詩人、杜甫も言いますが、

悠久の姿を留める、山川草木に比べて、国の運命とは儚いもので、

無敵の栄華と繁栄を誇っていた国もいつかは滅びる時がきます。

劉備(りゅうび)が建国した蜀漢も西暦263年には、魏の侵攻で滅亡する事になりました。

その混乱の中で、蜀の民や国に尽くした人はどうなったのでしょうか?

 

前回記事:【三国志の素朴な疑問】蜀が北伐を止められなかった理由とは?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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易姓革命の建前から言えば・・

 

易姓革命(えきせいかくめい)とは、中国において古い王朝が倒れて、

新しい王朝が起きる時の行動原理です。

 

そこでは、古い王朝は、政治を省みずに人民を酷使して虐げ、その為に天に見放されて、

新しく天命を受けた姓に取って易わられるという話になります。

 

姓というのは、張とか、陳とか劉とか李とかいう姓の事で、それらの新しい姓が

古い姓を易え(交替する)て天命が革(あらた)まるから易姓革命と言います。

例えば、漢を起こした劉姓は、魏を起こした曹姓に滅ぼされています。

 

つまり、易姓革命においては、新しい王朝は完全な正義であり、

滅びる方は天に見放され滅んで当然の100%の悪になるのです。

 

新しい王朝は、自らの正しさを証明する為に、古い王朝の天子を殺し宮殿を焼き払い

重臣達を皆殺しにし、歴代皇帝の墓を暴いて焼き捨ててしまいます。

こうして、前王朝を全否定する事が新しい時代の幕開けになるのです。

 

中国大陸の歴史は、ほとんど、この易姓革命が繰り返され数千万規模で、

人間が殺され、多くの文化財が焼き払われました。

新旧を対立させ、絶対善と絶対悪を規定すると、こうならざるを得ないのです。

 



では、蜀もそうなったのか?

 

では、蜀もそのような易姓革命により全否定されたのでしょうか?

幸運な事に、そうはなりませんでした。

 

 

当時の魏は、事実上は司馬氏の支配下にありました。

その司馬氏は、かつて曹丕(そうひ)がそうしたように、平和裏に魏から政権を

司馬氏に禅譲(ぜんじょう)させる事を画策していました。

禅譲とは、武力を使わずに自発的に前の王朝に政権を委譲させる事を言います。

実際には、強制力を伴うのですが、武力で全てを破壊して政権を奪う、

暴力的な放伐(ほうばつ)に比べ、ずっと被害が少なくて済みます。

こうすれば、前の王朝に仕えていた人々も継続して引き継げますし、

大きな反発や反乱をかなり抑えられるので、長い目で見るとプラスなのです。

 

この司馬氏の穏健な態度から考えれば、蜀漢に対しても降伏さえすれば、

いたずらに危害を加えないというのは当然の事でした。

天下の人々も、降伏した蜀漢に対して、寛大な処置をする司馬氏を

徳のある行為と賞賛するでしょう。

 

ひいては、その南で帝位を称する呉に対しても降伏すれば悪いようにはしない

という無言のPRになるのです。

 

関連記事:【三国志の矛盾】二帝並尊をなぜ諸葛亮孔明は認めたの?

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史実として、劉禅や重臣達はどうなったのか?

 

蜀帝、劉禅(りゅうぜん)は、南方に逃げて抗戦しようという意見を退け、

譙周(しょうしゅう)の勧めに従って降伏。

数名の臣下を伴って洛陽に向かい、そこで晋司馬昭(しばしょう)の挨拶を受けています。

そして、劉備以来の父祖の地である幽州の安楽県で安楽公に封じられて、

貴族としての生活を維持できるのに充分な食糧と資金を与えられました。

そして、271年まで生きて、65歳で死去しています。

劉禅に付いていった郤正(げきせい)も安陽県令から巴西大守に昇進しています。

 

劉禅に降伏を勧めた譙周は、陽成亭侯となり、後には散騎常侍に指名されますが、

病気で辞退していますし、宦官として蜀を腐敗させた黄皓(こうこう)も

賄賂を使って罪を逃れています。

 

 

もちろん、魏と激しく戦って戦死したり、姜維(きょうい)のクーデターに加担して失敗し

混乱で戦死した蜀の家臣達も大勢いますが、少なくとも降伏して大人しくしていた

重臣達は、まずは洛陽に連行され、その後、落ち着いてから各地に派遣され、

 

県令や郡大守という地位についていますし、晋に仕えるのを潔しとしない人々も

別に処罰される事もなく、やがては司馬炎に招聘されて役人に登用されています。

 

 

三国志を書いた陳寿(ちんじゅ)も蜀の臣でしたが、滅亡後には、同僚の

羅憲(らけん)の引きで晋王朝に仕えて治書侍御史になり歴史家としての才能を

高く評価されています。

 

建国の功臣達の扱いはどうなるの?

 

では、蜀漢の滅亡以前に死んでしまった建国の功臣達はどうなるのでしょう?

蜀では、法正(ほうせい)関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)

馬超(ばちょう)黄忠(こうちゅう)諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)

蔣琬(しょうえん)費禕(ひい)という人々が顕彰されたのですが、

当然の事として、晋王朝は、これらの功臣達を無視する事になります。

 

敗者に寛大な処置をする理由は、誤った王朝に仕えていた可哀想な人々に

恩赦を与えようと言う上から目線な理由なので、当然の事として、

かつて、その偽物の王朝を支え奮闘した功臣を、晋が祀りあげる義理はないのです。

 

ただし、国や民間が造り上げた、祠や廟を晋は破壊したりはしませんでした。

なので蜀の人々が、蜀漢の功臣を崇めるのは、黙認したという事になります。

 

もちろんの事として、劉禅や重臣が罪に問われないのですから、

蜀の人民も処罰される事はありませんでした。

つまらない面子より、恨みを残さない事を優先した司馬炎(しばえん)の英断もありますが、

武力討伐より、禅譲そして、平和裏な政権交代に拘った魏と晋の方針に

蜀の人々は救われた面もあると言えるでしょう。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

こうして見ると、なんだ降伏しても大した事ないじゃんと思うかも知れません。

しかし、降伏により、蜀の人間からは大事なモノが奪われました。

それは正義と誇りです。

晋の支配下においては、蜀の人々は公に「蜀にだって正義はあった」とは言えなくなり、

もちろん正史においてもそれは否定される事になります。

 

「勝者は気分次第で、敗者に何でも与える事が出来る、正義以外は」

という言葉がありますが、晋に降伏せず死を選んだ人々は、

その正義を失う事を恐れ、命を投げ出して行ったのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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