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高麗(こうらい)ってどんな国?アンゴルモア元寇合戦記が100倍面白くなる

2017年5月31日


 

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蒙古襲来絵詞(元寇)

 

大人気の時代劇冒険チャンバラ漫画、たかぎ七彦のアンゴルモア元寇合戦記。

現在、漫画の方は、対馬から離れて、モンゴルと共に日本を侵略している

高麗(こうらい)の状況を歴史的経緯を踏まえて丁寧に描いています。

そうなると、高麗(こうらい)ってどんな国だったのか?気になりますよね・・

そこで、今回は、高麗の建国から滅亡までをザックリ紹介しますよ。

これを読めば、アジア史の点数も上がるし、たかぎ七彦先生の漫画も、

100倍楽しめます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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高麗(こうらい)は王建によって918年に建国された

 

9世紀の末期より、朝鮮半島の統一者であった新羅(しらぎ)ですが、

統一がなった頃から地方豪族の反乱が激しくなり、結局、新羅から

後高句麗(ご・こうくり)、後百済(ご・くだら)が分裂。

再び、三つ巴の三国時代へ突入します。

 

その中で、新羅王族出身の後高句麗の弓裔(きゅうえい)は、北朝鮮南部の

松嶽(しょうがく)に勢力を持つ豪族の王氏を支配下に加え、ここで

後高句麗の王として即位します。

 

しかし、弓裔はその頃から、自身を弥勒菩薩の化身と言いだし、崇拝を強要、

ささいな事で部下を殺すようになり、配下の王建(おうけん)がクーデターを

画策して成功。

弓裔は殺害され、918年に王建が松嶽を開城(かいじょう)と改名して

高麗を建国しました。

 

高麗 後百済、新羅を滅ぼして半島を統一

 

王建が高麗を建国すると、すぐに半死半生の新羅を吸収、最期まで残った後百済を下し

西暦936年に朝鮮半島を統一し、中国をモデルとした三省六官九寺の行政組織を整備。

同時に混乱した国内の安定に努め、

旧新羅の王族や地方豪族を登用し、府、州、郡、県と分けた領地を治めさせました。

 

一方で王建は、北方まで勢力を伸ばした高句麗を理想とし、戦乱で荒れ果てた

平壌(へいじょう)を再建して、副首都とし北方制圧の前線基地とします。

 

契丹に滅ぼされた渤海の遺民を受け入れ領土を拡張

 

高麗建国と同じ頃、朝鮮半島の北東部には、モンゴル系の契丹(きったん)が

遼(りょう916~1125年)を建国し西に位置した渤海(ぼっかい)を滅ぼします。

王建は、渤海の遺民を積極的に受け入れて北を守らせる事で領土を拡大しました。

契丹に対して王建は怨念があり、決して和睦しようとしなかったので、

契丹は高麗王朝にとって最大の敵になっていきます。

 

さらに王建は五代十国の混乱期に入っていた中国に進貢して臣従してみせ

遼を牽制する事も忘れませんでした。

 

両班が導入され、国内の整備が完了する

 

王建は943年に死去しますが、高麗は順調に発展を続けます。

中国王朝を模倣して、文官と武官集団、両班(やんばん)に政治を担わせたのも

この高麗王朝の時代です。

 

しかし、両班では科挙で選ばれる文官が武官より上位でした。

この事も、中国王朝と同じなのですが、やがて科挙は有名無実化し、

文班は高位文官を輩出する世襲貴族と化していきます。

一方の武班には、そのような試験は無く、世襲のほかに実力者から

代表が選ばれるようになっていきます。

文班優位は、いよいよ強まり、武班と文班は激しく対立しだします。

 

クーデターで7代穆宗が殺害され、契丹の侵略を招く

 

西暦1009年、高麗王朝の7代、穆(ぼく)宗が西北面巡検使の康兆(こうちょう)を呼び寄せ、

生母の外戚、献哀王后の愛人、金致陽(きんちよう)の勢力を排除して

後継者に顕宗(けんそう)を立てようとしますが、康兆は顕宗擁立を実現したものの、

金致陽の勢力ばかりか穆宗にまで退位を迫りその後殺害しました。

 

これにより高麗は大混乱し、1010年には契丹の侵略を招きます。

契丹との戦いは10年も続きますが、8代顕宗は粘り強く契丹の侵略を跳ねのけ

1020年には和睦しました。

これ以降、契丹は衰え、元々、契丹の下にいた女真(じょしん)族が

急激に勢力を伸ばしていきます。

 

女真族、対馬・壱岐を襲う

 

女真族は、旺盛な征服欲を持っていて、高麗は刀伊(とい)と呼んで警戒していました。

1019年、女真族は海を越えて、壱岐(いき)・対馬(つしま)に上陸し、

島内を荒らして、掠奪を欲しいままにしました、これを刀伊の入寇と言います。

 

アンゴルモア元寇合戦記にも刀伊祓(といばらい)という戦闘集団が登場しますが、

この時にも、おそらく島を守る為に活躍したのでしょう。

 

ただ、刀伊の入寇には、女真族だけでなく高麗人も含まれているという説もあり、

女真族だけを悪人にするのは無理があるかも知れません。

 

女真族が金を建国、高麗は服属する

 

女真族は日に日に強大になり、1107年には高麗にも攻め込んできます。

完顔阿骨打(かんがん・あくだ)に率いられた女真族は、1115年に国号を金とし、

1125年には、北宋と共同で契丹族の遼を滅ぼし、さらに1127年には

北宋に攻め込んで都を蹂躙し、北宋の皇帝を捕虜として連行する靖康(せいこう)の変を

引き起こして、北宋を滅ぼして、中国の北半分を支配しました。

高麗は単独では対抗できず、1126年には、金へ服属して貢物を送ります。

 

武班がクーデターを起こし、武臣政権が樹立される

 

高麗18代国、毅(き)宗(1146~1170)の時代、冷遇されていた武班は、

特に酷使され差別されるようになります。

これに政治の腐敗も重なり、武班の不満はついに爆発、1170年、毅宗が開城を

離れた隙を突き、武班の実力者、鄭仲夫(てい・ちゅうふ)、李義方(りぎほう)が

首都を陥落させて、武力で毅宗を廃位し、弟の明宗を即位させ文班の多くを殺害します。

この一連の事件を庚寅(こうえん)の乱と言い、以後、高麗王は権威だけの

お飾りの存在になり、武班の政権が約100年継続していきます。

 

同時期に、日本でも武士の平家が台頭し、次に源氏が1185年、

鎌倉に幕府を開くので、高麗の歴史と日本の歴史は奇妙に一致していますね。

 

武班の勢力争いで崔忠献が台頭、武臣政権の黄金期が到来

 

武班は権力を握ると、複数の勢力が頂点を目指して争います。

この戦いを制したのが、崔忠献(さいちゅうけん:1149~1219)で

1197年に明宗を退位させ弟の神宗を擁立、独裁を敷いて、私邸に政房を設けて、

文班、武班を問わず参内させて政務を執るようになります。

彼の死後も三代に渡り、崔氏が政権を握り1259年まで武臣政権は存続します。

 

モンゴル、高麗に襲来、武臣政権、三別抄を組織し抵抗

 

1213年、高麗23代国王 高宗が即位します、同じ頃、ユーラシア大陸に

最強にして最大の帝国が誕生しようとしていました。

蒼き狼、チンギス・ハンに率いられたモンゴル帝国です。

 

高麗は、当初、モンゴルと共同で、契丹の遼の残存勢力を滅ぼすなど、

良好な関係を保っていましたが、1225年、モンゴル人が鴨緑江で殺害される事件が

起こり、国交は断絶、モンゴルは、1231年以来、六度に渡って高麗に攻め込み、

三十年に及ぶ、モンゴルと高麗の戦いが開始されます。

 

現在、アンゴルモア元寇合戦記で、趙義光(ちょうぎこう)やフビライ・ハン、

王世子の諶(しん)が口にする三十年の戦いとは、この時のモンゴルと

高麗の激闘を指しているのです。

 

しかし、モンゴル軍の強さは尋常ではなく、高麗は大苦戦し、高宗は開城を放棄し

離れ小島である江華島(こうかとう)に遷都します。

 

正規軍だけで太刀打ちできなくなった崔氏は、自身の私兵団である、

三別抄(さんべつしょう)をモンゴルとの戦いに投入しますが、都を放棄した事で、

高麗全域がモンゴルの蹂躙を受ける事になり、高麗はほぼ滅亡に等しくなります。

 

三別抄(さんべつしょう)とは?

 

三別抄の別抄とは、別に組織された「抄」という意味です。

「抄」は没収することを意味し、元々、別抄とは反乱を起こした地域へ派遣され、

反乱を鎮圧したのち、打ち破った賊徒の没収財産を分け与えられた。

あくまでも反乱対策で臨時に組織された軍組織だったのです。

 

しかし、崔氏の武臣政権のもとでは、崔氏の私兵団として拡大されるとともに、

反乱続発で、半ば常備軍化していき、夜間の巡察隊である左別抄、右別抄の

二部隊が組織されて、二別抄となり、それに加えて、モンゴルとの戦闘で

捕虜から脱出した人員による「神義軍」を加えて「三別抄」と呼称されます。

 

戦いに特化した部隊であり、日本の御家人に近いですが、崔氏政権に領地を

与えられたわけではなく俸給だったので、その点は御家人とは違います。

 

 

三十年のモンゴルとの戦いの後、高宗は降伏する

 

1258年、モンゴルの侵攻に抵抗しきれなくなった高宗は、

皇太子倎(てん)を人質として差し出し、モンゴルへ服属しますが翌年病死しました。

その頃、モンゴルでは、4代大ハーンのモンケが南宋を攻めている途中に病死、

後継者を巡り、弟のフビライとアルクブケが争いを開始したので、

皇太子の倎は江華島に戻り、1259年、24代高麗王元宗として即位します。

 

こうして、即位した世宗は、フビライを支持し、1260年にフビライが、

五代目大ハーンになると親モンゴルの政策を打ち出していきます。

 

親モンゴル政策に反モンゴル派の林衍がクーデターを起こすが・・

 

元宗は親モンゴル、親フビライの政策を貫いて、高麗を存続させようとしますが

反モンゴル派の武班、林衍(りんえん)はこれに反発して、1268年

クーデターを起こし元宗を退位させ元宗の弟の王淐(おうしょう)を即位させます。

しかし、ここにモンゴルが介入し、1269年、林衍の政権は脆くも崩壊、

元宗は復位し、武班の時代は終結し、文班が武班を抑える事になります。

ところが、まだ高麗には懸念が残っていました、江華島に拠点を持つ三別抄の存在です。

 

高麗、モンゴルと共に同胞、三別抄を滅ぼす・・

 

1271年、元帝国が成立し、フビライ・ハンが初代皇帝になります。

いよいよ、中華圏でのモンゴルの覇権が確立すると、元宗は開城に戻り、

1270年、モンゴルに飽くまで抵抗を続ける三別抄の解散を命じます。

 

しかし、三別抄は納得せず、逆に高麗にさえ叛くと宣言しました。

これに対して、高麗はモンゴルとの連合軍を組織して、三別抄を攻撃します。

三別抄は、江華島から、珍島、さらに耽羅(済州島)に拠点を移して

猛抵抗しますが1273年に力尽き、指導者、金通精(きん・つうせい)は自殺しました。

 

忠烈王はモンゴルの傀儡で高麗はモンゴルの属国化

 

翌年、元宗は死去、後を継いだ、王世子、諶(しん)は25代忠烈王として即位しますが

彼は、フビライの親衛隊(ケシク)として勤務し、モンゴルに憧れを持つ元宗以上の

親モンゴル派であり、フビライ・ハンの日本侵略、文永の役と弘安の役にも、

軍船、兵員、物資を提供して協力します。

 

忠烈王の時代、高麗はモンゴルにより搾取され、見かねた部下により、忠烈王は

一度、廃位されますが、再び、モンゴルが干渉して反乱を鎮圧、忠烈王を復位させます。

 

こうして、忠烈王のモンゴルへの依存は、ますます深まり、高麗では、

王位を継ぐ者は、必ず元朝皇帝の親衛隊として勤務し、それが終わってから、

高麗王として即位する他、王族は、モンゴル名を持つなど従属が進みました。

 

武宗、元朝を見限り、明に接近する

 

元帝国は、高麗にモンゴル人監察官(達魯花ダルカチ)を派遣して、

高麗の国内を隅々まで監視して、反乱の芽を摘み取ります。

しかし、武宗が31代高麗王として即位した1351年、元帝国では、

帝国崩壊の序章となる紅巾の乱が勃発し、弱体化が進みます。

 

同時にこの頃は、倭寇の被害が激しく、また、モンゴルを追い落とした、

朱元璋(しゅげんしょう)の明が江南から起こり、1368年には、

元をモンゴル高原へ追い返す等、アジア世界に大きな動乱が発生していました。

 

ここで、武宗は、1356年にモンゴルを見限り、明王朝支持を決断。

高麗はモンゴルの支配を脱しますが、武宗も1370年親モンゴル派宦官によって

殺害され、高麗も大混乱します。

 

全州、李氏の首領、李成桂 高麗を滅ぼし李氏朝鮮建国

 

それより以前、武宗は、モンゴルと断交した際に失地回復の司令を全州李氏の

軍閥、李子春(り・ししゅん)に出していました。

1361年、李子春が死去すると、息子の李成桂(りせいけい)が金氏を率い

高麗の武将として倭寇討伐や、紅巾軍の撃退に何度も手柄を立てます。

この李成桂が、1392年に、34代高麗王、純宗(じゅんそう)に禅譲させて

建国したのが、李氏朝鮮という事になるのです。

 

アンゴルモア元寇合戦記ウォッチャー kawausoの一言

 

以上が、かなりザックリとした高麗の歴史です。

アンゴルモア元寇合戦記にしか興味が無い方は、赤字の部分だけを読んでも

漫画の理解が、ずっと深まると思います。

たかぎ七彦先生の作品では、元宗は、反モンゴルで息子の忠烈王が

親モンゴルを強調して、描かれていますが事実は元宗も親モンゴル派で

江華島に拠点を持つ、三別抄のみが反モンゴルで抵抗していた事が分かります。

こういう漫画とは解釈が違う所も歴史を学ぶ面白さです。

 

・おススメ!アンゴルモア元寇合戦記3巻

 

 

圧倒的なモンゴル軍の武力を前に、ただ守るだけではジリ貧になると朽井迅三郎は

対馬武士団及び流人を率いてモンゴル軍の船団に夜襲を掛ける。

しかし、道案内を任せた村人の中に、モンゴルへ寝返った者がいて一転ピンチに・・

女真族出身の征東軍、副元帥 劉復亨と朽井迅三郎との一騎打ちなど見所多いデス。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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