【センゴク】戦国時代を揺るがす本能寺の変。秀吉はこの事件のせいでショックを受けて腑抜けになった!?

2017年6月10日


 

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織田信長は長年の宿敵であった武田勝頼(たけだかつより)率いる武田家を滅亡させることに成功。

彼は滅亡したばかりの甲斐(かい)で織田家の諸将達へ武田家の領土を分割して与えた後、

東海道(とうかいどう)から安土へ帰還を果たします。

この時信長は初めて富士山を見たそうで大はしゃぎしたそうです。

彼は安土城へ戻ると武田家討伐に功績のあった徳川家康を呼び、

今までの功績を労うおもてなしを行うことにします。

信長は明智光秀に家康をおもてなしをするための宴会準備を命じます。

光秀は信長から家康をもてなす宴会の準備を行っている頃、

備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)では、

羽柴秀吉と毛利家との間で和睦に向けて話し合いが行われておりました。

秀吉は信長がやってくることを毛利家へちらつかせて少しでもいい条件で、

毛利家と和睦するように交渉を行っていきます。

毛利家は信長がやってくる前に秀吉と和睦を結ばなければ、

高松城陥落だけでなく毛利家も滅亡する可能性があり焦っておりました。

そんな中ついに信長が秀吉を助けるために自ら軍勢を率いて出陣することが決まりますが、

秀吉の救援に向かうことができませんでした。

なぜ信長は秀吉を救援するための軍勢を派遣できなかったのか。

それは織田家ひいては戦国時代における大事件が勃発してしまったからです。

信長の身に大事件が起きたせいで秀吉は茫然自失となってしまい

腑抜け状態になってしまいます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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高松城をめぐる外交

 

毛利家は総力を挙げて高松城救援に向かいますが、

高松城が水攻めによって水没している姿をみて救援が不可能であることを悟ります。

そのため毛利家は外交の達人である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を秀吉の元へ派遣し、

秀吉と和睦するための交渉を行わせます。

秀吉は黒田官兵衛(くろだかんべえ)と蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)に

毛利家との外交を任せることにします。

毛利家との外交を任された官兵衛と正勝は恵瓊と会見。

毛利家は秀吉と和睦をする条件として「備中(びっちゅう)・備後(ひご)、美作(みまさか)、

伯耆(ほうき)、出雲(いずも)の五カ国の割譲をする代わりに、

高松城の城主以下将兵達の生命を安堵してもらいたい」と

要求してきます。

しかし官兵衛は秀吉に恵瓊の出した条件に対してお伺いを立てると反対し、

「最低でも五カ国。さらに高松城の城主の命はもらわなければダメだ。」と提案。

官兵衛は秀吉の意見を恵瓊に伝えると彼は「承知しました。

とりあえず輝元(てるもと)様、

吉川(きっかわ)・小早川(こばやかわ)様の三人に提案してきます。」と

述べて去っていきます。

恵瓊は秀吉が示した条件を三人に提案しますが、

三人は「高松城・城主清水宗治(しみずむねはる)の命だけは、

絶対に助けなければならない」と恵瓊に訴えます。

こうして恵瓊は再度官兵衛と正勝の下に行き、

毛利・織田の和睦の条件を交渉しに行くのでした。

毛利家と羽柴家で和睦交渉が行われている最中、

ついに戦国の覇者が動き始めることになります。

 



家康を労う

 

信長は武田家の征伐が完了した後、

徳川家康を安土城に呼んで長年の功績を労うための宴会を催しておりました。

信長は明智光秀に家康をもてなす準備を行わせます。

光秀は信長の命令を受けると各地の美味な食材をかき集めて、

料理をさせると共に宴会場の準備を行います。

そして信長は光秀の用意周到な準備に満足し、

家康が来ると宴会の式場で大いに彼をおもてなしします。

こうして家康をもてなす会は大成功に終わろうとしていました。

しかし秀吉の使者がやってきたことによって事態は急変することになります。

 

本能寺に駐屯

 

信長の元に一人の使者がやってきます。

その使者は秀吉の手紙を持っておりました。

秀吉が信長へ宛てた手紙の内容は

「大殿様。是非大殿自ら援軍を率いて来てくだされ。」との内容でした。

信長は秀吉のこの手紙をみて苦笑いし「わかった。

すぐに支度して向かうゆえ待っておれ」と使者へ向かって言い放つと光秀を呼んで

「すぐに秀吉の元へ向かえ」と命令を下します。

信長は家康へ「家康殿。申し訳ない。うちの猿がどうしても援軍を欲しいと言ってくるので、

ちょっと高松城へ行ってくることになってしまいました。

家康殿には大変申し訳ないと思っております」と謝罪。

家康は「とんでもない。此度は非常に気持ちが行き届いたおもてなしを受けました」と

言って信長の元を去っていくことにします。

信長は家康が去った後、

親衛隊を率いて本能寺(ほんのうじ)へ向かいこの地で軍勢が揃うのを待つことにします。

 

「俺。信長殺すからよろしく」by光秀

 

光秀は領地である亀山城(かめやまじょう)へ到着するとすぐに軍勢を出陣。

彼は出陣後途中で軍勢を合流させていき一万三千程の軍勢に拡大します。

彼は中国地方と京都へ向かう分岐点である沓掛(くつかけ)に到着。

すると重臣達を招いて「おれ。信長殺すからよろしく!!」と述べます。

光秀の重臣である斎藤利三(さいとうとしみつ)、明智光春(あけちみつはる)らは驚き、

信長を殺害しないほうがいいのではないかと説得。

しかし光秀の決意は固く彼らの意見を受け入れることはありませんでした。

重臣達は光秀の決意が固いことを知り、

覚悟を決めて信長を冊がするべく軍勢を京都へ向けて進軍を行っていきます。

 

我が敵は本能寺にあり!!

 

光秀は京都に到着すると兵士達が不審な行動を取ったら斬り捨てるように命令。

そして本能寺に到着すると光秀は「我が敵は本能寺にあり!!いざ攻撃を開始せよ」と

号令を下します。

こうして光秀の軍勢は本能寺へ総攻撃をかけます。

信長は外がうるさくて起きると森蘭丸(もりらんまる)を呼んで

「外がうるさいぞ」と述べます。

すると蘭丸は「明智の桔梗紋が外にたなびいております。

光秀様ご謀反かと」と信長に語ります。

信長は蘭丸の言葉を聞くと諦めたように「是非に及ばず」と述べたそうです。

その後信長は自ら弓矢をもって明智軍に攻撃し数名を倒します。

弓の弦が切れると槍をもって奮戦。

しかしたった数百人程度しかいない軍勢では明智軍の猛攻を支えることができず、

信長の親衛隊は次々と討ち取られていきます。

信長は「最早これまで!!」と叫ぶと本能寺の奥深くに入り、

自ら寺に火をかけて亡くなってしまいます。

こうして尾張(おわり)の大うつけから戦国の覇者にまで成り上がった織田信長は、

亡くなることになります。

 

和睦成立

 

秀吉は信長が本能寺で光秀の軍勢に敗北して自害していた頃、

毛利家の外交を担っている安国寺恵瓊と羽柴家の外交を任せれている

官兵衛と正勝の努力によってついに毛利・羽柴の和睦交渉が成立することになります。

毛利家と羽柴家が和睦する際の内容は「毛利家の領土三カ国(備中・美作・伯耆)を割譲。

そして高松城の城主・清水宗治を自害させること」で決着がつきます。

こうして和睦交渉が成立した時、秀吉のもとへ一人の使者がやってきます。

その使者は秀吉へ「明智光秀様が謀反を起こして、

信長様を討ち取ったとのよし」と伝えます。

秀吉はこの言葉を聞いても何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。

秀吉と一緒に使者の内容を聞いていた羽柴秀長(はしばひでなが)は使者を別室に移して、

ねぎらうように命令。

秀吉は信長死すの報告に呆然自失となってしまい腑抜けになってしまい、

次にどのような行動を取ればいいのかわからなくなってしまうのでした。

 

戦国史ライター黒田レンの一人ごと

 

明智光秀の謀反によって織田信長は亡くなってしまいます。

秀吉はショックのあまり立ち直れなくなってしまいます。

さてここで戦国最大の謎の一つ「光秀がどうして信長に謀反を起こしたのか」

その原因は一体何なのであったのか。

次回は光秀が織田信長に謀反を起こした動機について調べてみたいと思います。

 

参考文献 PHP新書 明智光秀 小山田哲男著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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