戦国時代最大のミステリー・本能寺の変の謎に迫る!!


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戦国の覇者として君臨し、天下統一まで後一歩のところまで手が届いていた織田信長。

しかし家臣である明智光秀(あけちみつひで)が信長に叛旗を翻したせいで、

本能寺で亡くなってしまいます。

明智光秀は織田家でもかなり優遇されていたにも関わらずなぜ信長に叛旗を翻したのか。

今でも最大の謎とされているところでありますが、

長年の研究により光秀が信長に叛旗を翻すことになった理由が、

少しづつ明らかにされてきました。

今回は戦国時代最大のミステリーとされている

「なぜ明智光秀が本能寺の変を起こしたのか」について迫ってみたいと思います。

 

センゴクを100倍楽しむ全記事一覧はこちら

関連記事:【センゴク】戦国時代を揺るがす本能寺の変。秀吉はこの事件のせいでショックを受けて腑抜けになった!?


本能寺の変とは

 

まず光秀が信長に叛旗を翻した本能寺の変とは一体何なのでしょうか。

本能寺の変をざっくりと説明させていただきたいと思います。


徳川家康を労う準備を命じられるが・・・・

 

光秀は信長から「徳川家康が安土城へやってくるから、

この時に彼をもてなす宴会などの準備を行うように」と命令されます。

光秀は信長の命令に従って家康をもてなすための準備を行っていきます。

そして光秀が一生懸命徳川家康をもてなすための準備を終えると信長から

「サルが備中で苦戦しているそうだ。

今から救援に向かうため、お前も領内に戻って兵を整えてくるように」と命令を受けます。

こうして光秀は領地である亀山(かめやまじょう)城へ帰還することになります。

 

京都へ向かって進軍開始

 

光秀は信長に命じられて領土である亀山城へ帰還。

彼は軍勢がある程度そろうと亀山城から出陣することにします。

光秀は途中で領内を通りながら軍勢を次々に合流させていき、

京都と西国へ向かう分岐点である沓掛(くつかけ)の地に到着した時には

一万三千程の軍勢が光秀の元に集まっておりました。

彼はこれらの軍勢に休憩を与えます。

光秀は軍勢が休憩をしている間に重臣達を集めて「信長を討つことにしたから」と述べます。

明智家の重臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)や明智光春(あけちみつはる)らは、

光秀の発言を聞いて驚きを隠せませんでした。

しかし光秀の覚悟が相当に固いことを知ると彼の命令に従って、

軍勢を京都へ向けて進軍させていきます。


敵は本能寺にあり

 

光秀は京都に到着すると本能寺へ向かって進軍を行っていきます。

彼は将校達に信長を討つことを既に知らせており、

兵士達に不審な動きをする者がいればすぐに斬るように命令を下しておりました。

こうして光秀は本能寺に到着すると軍勢に向かって「敵は本能寺にあり」と叫び、

攻撃を開始させます。

 

信長の奮闘むなしく・・・・

 

信長は本能寺の周りがガヤガヤとうるさくて目が覚めてしまいます。

彼は小姓であった森蘭丸(らんまる)を呼びつけて「何事ぞ」と質問します。

すると彼は「明智光秀が反乱を起こして、本能寺へ攻撃を仕掛けてきております。

急いでお逃げくだされ」と慌てて質問に答えます。

信長はこの話を聞くとすぐに弓をもって外へ飛び出し、

明智軍へ攻撃を仕掛けていきます。

明智軍は信長を見つめると彼に鉄砲や弓矢で攻撃を行います。

信長は明智軍の攻撃を受けて数カ所怪我をしてしまいますが弓を放ち続けますが、

使っていた弓の弦が切れてしまうと槍をとって明智軍へ攻撃を行います。

そして槍が折られてしまうと槍を捨てて奥に引っ込んでいくのでした。

その後彼は本能寺に火をかけて亡くなってしまいます。

これがざっくりですが、本能寺の変のあらましとなっております。


  

 

光秀が反乱を起こした理由とは

 

さて本能寺の変を上記で説明しましたがここからが本題となります。

なぜ明智光秀は織田信長に反乱を起こしたのでしょうか。

彼は織田家においては出世頭といっていいほど信長に優遇されておりました。

そんな彼が謀反を起こした理由は諸説ありますが、

代表的なものを挙げておきますと

 

1信長怨恨説

2朝廷関与説

3足利義昭関与説

4光秀単独(突発)説

など多くの説が発生しております。

レンとしては1・4の複合なのではないのかと考えております。

2・3が光秀の謀反を起こす理由足りえないのはどうしてなのでしょうか。

 

谷口克広氏の見解から参考にすると・・・・

 

レンがよく参考資料として購入している谷口克広氏の本から、

上記の2・3が光秀の反乱の理由足りえないことをご紹介させていただきたいと思います。

2の朝廷が関与している可能性がほとんどない理由ですが、

谷口氏曰く「本能寺の変が起きた近々の公家の日記を読み解く限り、

光秀に朝廷が関与しているような記事が一切見当たらないことが理由としてあげられる」と述べております。

そのため朝廷関与説はありえないとしております。

そして3の足利義昭(あしかがよしあき)が光秀を動かして、

織田信長に叛旗を翻させた説ですがこれも谷口氏は否定しております。

なぜ3の説は否定されるのでしょうか。

それは足利義昭が将軍の地位を剥奪され京都を追い出されている存在で、

彼に協力して信長に反逆をしたところでどの程度の味方が義昭を中心に集ってくるのか。

それを考えると本能寺の変に義昭が関与していた可能性は限りなく低いのではないのかと

述べております。

さらに足利義昭関与説を否定する証左として、

光秀が盟友である細川藤孝(ほそかわふじたか)に手紙を送って、

仲間になってくれるように説得した際、

足利義昭の名前に一度も触れていないことを挙げております。

上記の理由から2・3は光秀が本能寺の変を起こした直接の理由ではないと

されております。

 

光秀が信長に叛旗を翻した理由とは:信長怨恨説と光秀単独(突発)説だったのでは!?

 

レンが考える明智光秀が織田信長に反乱を起こしたきっかけは、

信長怨恨説と光秀単独説の複合だったのではないのでしょうか。

その証左をいくつかご紹介したいと思います。

まず信長を恨んだ説ですが、

キリスト教の宣教師であるルイス・フロイスは「密室で光秀が信長に蹴られたそうだ」と

日記に書かれております。

他にも信長に罵倒されたり、恥をかかされていることが幾度もあり、

光秀が信長に怒り(もしくは恨み)をもっていてもおかしくはないのではと思います。

この怨恨説を根底に光秀が単独(突発)で信長を襲ったのではないのかと思われます。

光秀は内政、軍略、文化、教養などあらゆる面で優れていた人物で、

信長に反旗を翻すというとんでもないことを仕掛ける際、

計画的な犯行であればしっかりと事前準備をしないことなんてあるのでしょうか。

もし信長を襲う計画をしっかりと立てていたのであれば、

山崎の合戦でほとんど手勢のみで秀吉軍と戦うことなどないのではないのでしょうか。

突発的に思い立って信長を襲ったからこそ細川藤孝や筒井順慶(つついじゅんけい)ら、

諸大名に協力してくれるよう幾度も光秀がお願いをしたと考えれるのではないのでしょうか。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

さて光秀が信長に反旗を翻した理由として、

徳川家康と共謀したのではないのかという説もあります。

しかし信長が長年の同盟者として付き合ってきた徳川家康を殺害する可能性なんて、

あるのでしょうか。

少し疑問に思うところではあります。

だがこの説が今でも確定的に否定できない説として、

徳川家康の側に使えた南光坊天海(なんこうぼうてんかい)と

いう僧侶が光秀ではないのかという説もあり、

この説と上記の徳川家康共謀説を合体させてみれば、

信憑性が増すのではないのでしょうか。

しかし一つ言えることは光秀がどのような動機をもって、

信長に反旗を翻したかこの点については未だに確たる事は、

何一つ分かっていないということです。

 

参考文献 中公新書 信長と消えた家臣たち 谷口克広著など

 


 

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