美濃大返し炸裂!織田家の覇権をかけた柴田勝家(アゴ)と羽柴秀吉(サル)の戦い

2017年6月22日


 

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平地で軍勢同士が激突する激しい合戦。

この合戦は三国志も日本の戦国時代もよく行われておりました。

羽柴秀吉と柴田勝家(しばたかついえ)が覇権を握ることになった

賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いも両軍が平地で激突して

激しい戦いを繰り広げた・・・・といえば違うのです。

彼ら二人が戦った戦は両軍が出陣して対峙を行い戦を繰り広げたことになるのですが、

今までの戦国時代で行われた平地で両軍が激しい攻防を繰り広げた戦とは違い、

実は攻城戦に近い戦いを繰り広げていました。

そして秀吉は勝家との戦いであの必殺技を使用して、

柴田勝家から勝利をもぎ取るのです。

今回は天下の覇権をかけた重要な戦いである賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いを

ご紹介していきたいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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勝家出陣

 

秀吉は柴田勝家と連携していた織田信孝(おだのぶたか)を降伏させた後、

勝家と連携していたもう一人の相手である滝川一益(たきがわかずます)の領土である

伊勢へ向かって出陣していきます。

滝川一益は自分が秀吉の相手をしている間に勝家が越前(えちぜん)から出陣し、

秀吉を挟み撃ちにして勝利を得る計画を聞いていたため、

秀吉が出陣して伊勢へ攻撃を仕掛けてくることを予想しておりました。

そこで彼は秀吉軍と戦う事になる前線拠点・亀山(かめやま)城の防備を厚くして、

秀吉軍の襲来を待ち受けます。

秀吉は一益の予想通りに伊勢・亀山城へ攻撃を行いますが、

秀吉軍は一益が施した防御工事のせいで亀山城を簡単に攻略することが、

できませんでした。

そこで秀吉は金堀衆(鉱山を掘るための技術者集団)を活用して、

亀山城の外堀を埋め立てて猛攻を開始。

その結果、亀山城は陥落してしまうのです。

しかし亀山城が陥落した同日勝家率いる軍勢が、

雪に埋もれた峠を越えて出撃してくることになるのです。

 

両軍の築城合戦がはじまる

 

柴田勝家は越前を出陣して北近江(きたおうみ)へ進出してくると

柳ケ瀬(やながせ)に駐屯し、

勝家の従兄弟で猛将として知られていた佐久間盛政(さくまもりまさ)が先鋒となって、

行市山(ぎょういちやま)に布陣することになります。

秀吉は勝家が北近江へ進出してきたことを知ると亀山城から北近江へ向かって、

進軍を開始。

秀吉は亀山城を陥落させてから14日で勝家の軍営に近い木之本(きのもと)に到着すると

急いで砦を建設するように諸将へ命令を出していきます。

大岩山の中川清秀(なかがわきよひで)は秀吉の命令が届くとすぐに砦を建設していき、

岩崎山(いわさきやま)の高山右近(たかやまうこん)、

桑山重晴(くわやましげはる)が駐屯している賤ヶ岳も防御工事を行っていきます。

対する柴田軍も行市山に駐屯していた佐久間盛政をはじめとして、

前田利家(まえだとしいえ)、金森長近(かなもりながちか)らが秀吉軍に対して、

防御陣地を築いていくことになり、両者は築城合戦を繰り広げていくことになります。

ここで両軍の砦の防御陣営に関して見てみましょう。

柴田勝家が構築した防御陣営はシンプルで、

防御を目的とした砦というよりも兵士が休憩するような駐屯場としての機能程度しか

持ち合わせていなかったようです。

しかし羽柴秀吉が築いた防御陣営は複雑で、

勝家率いる柴田軍の攻撃をしっかりと防御することのできる陣地でした。

ここから秀吉の戦力性が少しだけ伺うことができます。

秀吉は伊勢の滝川一益や一度降伏したがいつ反旗を翻すかわからない

織田信孝を各個撃破したいという戦略を描いておりました。

秀吉は一益・信孝を各個撃破するためには柴田勝家の南下を防がなくてはなりません。

そのため勝家軍の攻撃を防ぐことを目的として、

このような防御力のある砦を構築したのではないかと考えられます。

 

信孝の挙兵と秀吉の罠

 

秀吉は織田信孝が再度挙兵したとの報告を聞くと本陣を弟・羽柴秀長(はしばひでなが)に預けて、

信孝討伐のために出陣してきます。

秀吉は諸将を率いて美濃と近江を結ぶ重要拠点・大垣(おおがき)城へ入城。

この時勝家の重臣・佐久間盛政は勝家に「秀吉軍が居ない今、

攻撃をかける最大のチャンスと言えるでしょう。

先鋒の私に秀吉軍に攻撃をかけさせてくだされ」と懇願。

勝家は盛政の意見を採用して秀吉軍へ攻撃を仕掛けることにします。

だが肉を切らせて骨を断つ秀吉の罠でした。

秀吉は勝家の軍勢が自らの陣営に攻撃を仕掛けやすいような状況を作り出ため、

信孝討伐へ向かうことで隙をみせるのでした。

だが・・・・秀吉にとっても命懸けの罠でした。

もし勝家の軍勢が秀吉の陣営を粉々に打ち砕いてしまった場合、

勝家の軍勢は一気に長浜城へ突き進むことになり、

近江を失ってしまう可能性があったからです。

しかし秀吉が仕掛けた勝家への罠は成功することになります。

 

盛政の猛攻

 

佐久間盛政は勝家から秀吉の陣営へ攻撃を仕掛ける許可をもらうとすぐに出陣し、

大岩山に陣取っていた中川清秀へ猛攻を開始。

清秀は近くに陣営を築いていた高山右近からの援軍を得て必死に防戦に努めますが、

盛政軍の猛攻を防ぐ事ができずに討ち死に。

大岩山砦を陥落させた盛政は岩崎山にも攻撃を仕掛けて陥落させます。

勝家は盛政が次々と秀吉の陣営を陥落させることに不安を抱きます。

勝家が勝利を重ねている盛政に対してなぜ不安を感じたのでしょうか。

その理由は盛政が勝ちに乗って秀吉の陣営に深く入ってしまい、

撤退することができずに秀吉軍にボコられてしまうのではないかという不安でした。

そのため勝家は盛政へ「それくらい勝利を重ねれば十分であろう。

さっさと戻ってこい」と指示を出します。

しかし盛政は勝家の指示に従うことなく突き進んでしまうのでした。

 

必殺「美濃大返し」炸裂

 

秀吉は勝家の先鋒・佐久間盛政が動き始めてことを知ると急いで大垣城を経ち、

自らの本陣としている木之本へ向かって進み始めます。

ついでに大垣城から木之本まで約55キロほど離れており、

木之本へ到着するためには相当な日数がかかるはずでした。

勝家も信孝討伐へ向かって秀吉が木之本へ戻ってくるには

相当な時間がかかると予想を立てたからこそ佐久間盛政へ攻撃許可を与えたのです。

しかし秀吉は勝家の予想を大きく裏切ってとんでもない速さで木之本へ帰ってくるのです。

秀吉は中国大返しの時完成した技をここで披露することにします。

彼は1万5000ほどの軍勢を引き連れて、

54キロの距離をたった5時間でかけ戻ってくる必殺「美濃大返し」を繰り出すのです。

しかし不思議に思いませんか。

いくら秀吉の必殺技であったとしても、

現在みたいに大垣~木之本までの道がしっかりとコンクリートで、

舗装されているわけではありません。

さらに彼はひとりでかけ戻ってきたわけではなく、

1万5000人を引き連れて戻ってきているのです。

一体秀吉はどんなマジックを使ったのでしょうか。

 

必殺技の舞台裏:綿密な計画を立てていたからこそできた必殺技

 

秀吉は石田三成(いしだみつなり)へ

「俺が信孝を討伐へ向かったら必ず勝家が出陣してくるであろう。

そこでだ。俺は必殺技である「美濃大返し」を発動させるからしっかりと準備をしておけ」と

指示を出します。

三成は秀吉の命令を聞いて大垣~木之本へ帰る道筋をあらかじめ決め、

街道沿いに住んでいる民家へ「秀吉軍が帰還する際、食料を供給してくれ」と要請。

さらに彼は真夜中に秀吉軍が進軍する可能性を考慮に入れ、

街道沿いに松明を準備させておりました。

こうした準備があったからこそ秀吉軍は必殺技である「美濃大返し」を

発動することができたのです。

秀吉は木之本へ帰還するとすぐに反攻作戦を展開します。

 

秀吉軍の反攻作戦開始

 

佐久間盛政は秀吉の本陣へ出していた偵察隊から

「盛政殿。秀吉本隊が木之本へ帰還。」との報告を聞きます。

盛政は唖然としておりましたが、

盛政隊の最後尾についていた柴田勝政(しばたかつまさ)の部隊が

秀吉本隊からの攻撃を受けたことを知ると急いで撤退を開始します。

だが盛政の判断は時すでに遅しでした。

秀吉軍は盛政隊の最後尾に位置していた勝政軍を撃破して、

撤退している盛政隊へ襲いかかっておりました。

盛政隊は秀吉本隊と激闘を繰り広げますが、

秀吉軍の攻撃を支えることができずに敗退してしまいます。

盛政隊が敗北したことによって柴田軍は全軍崩壊してしまうのです。

さてこの時、秀吉本隊の中で武功が優れていた七人の若武者をたたえて

「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのななほんやり)」と呼称されることになります。

賤ヶ岳の七本槍に名を連ねているのは福島正則(ふくしままさのり)、

加藤清正(かとうきよまさ)、脇坂安治(わきさかやすはる)、加藤嘉明(かとうよしあき)、

平野長泰(ひらのながやす)、片桐且元(かたぎりかつもと)、

糟屋右衛門尉(かすやうえもんのじょう)の七人です。

しかし本当は九人いたことを知っておりましたか。

 

賤ヶ岳七本槍ではなく九本槍だった!?

 

賤ヶ岳の戦いで活躍したのは福島正則、加藤清正ら七人ではなく、

九人いたことを知っておりましたか。

残り二人の名前は石川一光(いしかわかずみつ)、桜井家一(さくらいいえかず)でした。

彼らも一生懸命頑張ったのになんで名前を削られてしまったのでしょうか。

その理由として石川一光はこの戦で亡くなってしまい、

桜井家一もこの合戦が終わってから4年後に亡くなってしまうからだそうです。

一生懸命頑張ったのに歴史に名前を留めることができなかったなんて可愛そうですが、

彼ら若武者達が頑張ったおかげで柴田軍は崩れてしまうことになります。

しかし勝家軍にもまだまだ秀吉に勝てる可能性があったのですが、

ここで秀吉が仕掛けた作戦が発動してしまうのです。

 

前田利家・不破勝光らが勝手に撤退してしまう

 

秀吉はこの戦が始める前に前田利家(まえだとしいえ)は秀吉から

「俺の味方になってくれないか。」と頼まれておりました。

利家は即答することなく秀吉と分かれます。

しかし利家は仲のいい親友からの頼みと長年上司として

目をかけてもらってきた勝家のどちらに味方するか迷っておりました。

彼はとりあえず勝家に付き従って軍勢を出陣させることにしますが、

積極的に羽柴軍へ攻撃をしないで戦況を傍観。

そして盛政隊が崩れたことによって。

戦況が秀吉軍の有利に運び始めたことをきっかけとして、

利家は勝家に攻撃をかけるのではなく戦線から離脱することにし、

金森長近、不破勝光らも利家に習って撤退してしまいます。

もし彼らが戦線離脱することなく踏ん張っていれば

どうにか戦況を押し戻すことができたかもしれませんが、

彼らは勝家の家臣ではないため、

今後の身の施し方を視野に入れていなければなりませんでした。

そのため秀吉軍に積極的(勝家の軍勢に攻撃をかける等の)に味方するのではなく、

秀吉に消極的な支援(自らが戦線を離脱したこと)を行うことで、

秀吉の味方をするのです。

勝家は利家らの諸将が戦線を離脱したことによって敗北し、

本拠地・北之庄(きたのしょう)城へ撤退していくことになります。

そして秀吉は勝家に勝ち天下の覇権をここから握っていくことになるのです。

 

戦国史ライター黒田レンの独り言

 

秀吉に敗北した勝家はその後どうなったのでしょうか。

勝家はその後北之庄へ撤退することができますが、

大半の兵士達は撤退途中に四散してしまいます。

そのため僅かな人数しか彼の元には残っておりませんでした。

勝家は秀吉に抵抗することを諦めて北之庄城に火をかけて自害。

また秀吉の味方として消極的な支援を行った前田利家は、

秀吉から褒められて大きな所領を有することになります。

また織田信孝は勝家敗北後も秀吉に抵抗しますが、敗北してしまい自害して果てます。

そして滝川一益は勝家敗北後、秀吉軍に抵抗することを諦めて降伏。

所領は没収されてしまいますが命は助けられることになります。

こうして織田家内部で行った内乱は終幕を迎え、

羽柴秀吉が織田家内部で覇権を握ることになり、

天下統一へ向けて出発することになるのです。

 

参考文献 吉川弘文館 秀吉の天下統一戦争 小山田哲男著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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