ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・これが起きたら時代は変わった!」のコーナーです。
「狼顧の相」を持ち、曹操からも曹丕からも「あの男は誰かに仕えるような器ではない。大望を秘めているだろう」と警戒され続けたのが、司馬懿仲達です。
軍略においてはあの諸葛亮孔明と互角。兵を率いても幾多の武功を積み上げ、三国志の中では優れた英雄の一人に数えられます。そんな司馬懿があの「赤壁の戦い」に参加していたら、勝敗は変わっていたのでしょうか。気になりますね。それでは妄想をしてみましょう。
仕官のタイミング
曹操は司馬懿の才能をずいぶん昔から見抜いています。能力のある家臣を集めている曹操にとっては、司馬懿はぜひとも自分の陣営に組み込みたい一人です。しかし肝心の司馬懿の方がそれを拒否しています。つまり曹操に仕えることに魅力を感じていないわけです。
「逃げたら殺す」とまで曹操は司馬懿にプレッシャーをかけています。ここまで執拗に司馬懿にこだわる理由はいくつか考えられますが、一つはこれほどの才能の男を野放しにしておくと危険だというものです。他の群雄に仕える可能性もあります。そうなると脅威です。
仕えないのなら殺せという命令はそんな曹操の気持ちの表れではないでしょうか。ちなみに曹操が丞相に就任した208年6月には、観念して曹操に仕えることを誓っています。曹操は翌月に15万の兵を率いて荊州に攻め込みました。そして10月に「赤壁の戦い」が繰り広げられるわけです。
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あまりにも新参者
司馬氏は代表的な名士で、兄の司馬朗(しばろう)はすでに曹操に仕えています。人脈やコネといったものは充分です。なにせ司馬懿の父の司馬防(しばぼう)は曹操を洛陽の北部都尉に引き上げた過去があり、曹操からしたら恩人の息子です。出世の道は確実に開けています。
しかしなにせ仕官してすぐの話ですので、「赤壁の戦い」で司馬懿が活躍するのは少し無理があります。兵を率いて戦場に出ることは考えられません。あったとしても曹操へ進言するくらいではないでしょうか。賈詡や荀攸という軍師がいましたから、そちらに助言する役目などが考えられます。どちらにせよ経験不足が否めません。
周瑜の計略を看破していたかも
荊州侵攻に同行していたとしたら、静かに地形や敵陣の状況などを観察していたはずです。黄蓋の偽りの投降も怪しいと見抜いていたかもしれませんし、現地調査を行い東南の風が吹くことも把握していたかもしれません。そう考えると不気味ですね。
でも司馬懿ならば考えらえます。果たして誰に進言したら信用してもらえるのだろうか、そもそも本当に誰も気が付いていないのか、このまま曹操が天下を平定してしまって本当にいいのだろうか、などなど司馬懿はいろいろなことを想定したかもしれません。
最善の結果は曹操が敗北し、もうしばらく戦乱の時代が続くことだったのではないでしょうか。この時すでに司馬懿は自分が皇帝になることを目標にしており、どうすれば近づけるのか自問自答していたかもしれません。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
あの曹操がそこまで警戒する人物ですから、司馬懿は図太くそこまで考えて献策しなかったのではないでしょうか。自分が飛躍できる時ではないという判断だったのでしょう。司馬懿は曹丕と接近し友好関係を結び、着実に戦場での経験も積み、魏を代表する将軍になるのですが、それは最も警戒していた曹操の死後のことです。
老練な司馬懿は魏国に絶大な勢力を築いていきます。蜀や呉が健在だったからこそ、司馬懿は活躍する機会に恵まれたのです。
赤壁の戦いに負けることが司馬氏の命運を開きました。
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