秀吉は小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いで、
徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)連合軍と
激しい戦いを繰り広げますが、彼らを戦で倒すことができませんでした。
その為彼は政略でこの戦いに決着を付けることを目指します。
秀吉は徳川家康と連合を組んでいる織田信雄に目を付けて、
彼にプレッシャーをかけ続ける事によって信雄が根を上げるように仕向けます。
信雄は秀吉のプレッシャーに根負けして家康に黙って講和条約を結ぶことに。
家康は秀吉と信雄が単独で講和してしまったため、
戦う名分が無くなり秀吉との戦を止めて自らの領土へ撤退していくことになります。
こうして小牧・長久手の戦いは終幕を迎えることになります。
しかしこの小牧長久手の戦いは秀吉vs家康・信雄連合軍だけではありませんでした。
信雄・家康から誘われた秀吉嫌いの大名達が集結して、
彼に戦いを挑んできており紀州の根来衆もその一部でした。
根来衆は秀吉が連合軍と対峙している最中、
秀吉の領土である岸和田(きしわだじょう)城へ攻撃を仕掛けて損害を与えることに成功。
秀吉と信雄・家康の連合軍が講和後も敵対することをやめずに反抗しておりました。
秀吉は彼らに領土へ侵入されたことに怒りを感じており、
根来衆を殲滅し積年の恨みを晴らすため、
彼らの根拠地・紀州(きしゅう)を征伐するべく戦を繰り広げることになります。
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水軍調達と毛利軍へ協力要請
秀吉は紀州征伐を行う際、
紀州の地形を考慮して陸上兵力だけでは、
彼ら根来衆へ致命的なダメージを与えることができないと判断。
そのため海上兵力を動員することにします。
まず淡路で展開していた水軍部隊を結集するとともに、
戦国時代最強と呼ばれていた毛利水軍を動員するべく毛利家へ
「毛利家の水軍を動員して海上から紀州へプレッシャーをかけたいと考えているから、
紀州征伐戦に協力してくれないですか」と要請。
毛利家は秀吉の協力要請を快諾して小早川水軍を紀州方面へ出陣させることにします。
秀吉は毛利水軍が出陣したことによって紀州征伐の準備が整ったと判断し、
陸上の部隊を紀州へ向けて出陣させることにします。
大軍でプレッシャをかける
秀吉は10万の兵力を動員。
圧倒的な軍事力を紀州根来・雑賀衆へ見せつけることに。
この戦いにおける先鋒は紀州征伐の先陣は小牧長久手の戦いで、
失態を演じた羽柴秀次(はしばひでつぐ)と堀秀政(ほりひでまさ)です。
彼らは小牧長久手の戦いでの失敗を挽回するチャンスを与えられたと考え、
勇んで二人とも出陣していきます。
また毛利水軍や秀吉の水軍も陸上の軍勢と呼応して出撃していくことになります。
こうして海上・陸上の二方面から圧倒的兵力を持って、
紀州へ攻撃を仕掛けていくことになります。
防衛ラインを構築して迎撃作戦を展開
根来・雑賀衆は秀吉軍大軍が襲来してくる情報を入手すると
近木川(こきがわ)と言われる川沿いに構築されている城に百姓や
鉄砲のプロフェッショナルである僧兵を防衛ラインへ入城させて、
秀吉軍の大軍を迎撃する作戦を展開することにします。
千石堀城の攻防戦
秀吉軍の先鋒である羽柴秀次・堀秀政らの軍勢は、
根来・雑賀衆の防衛ラインである千石堀(せんごくぼり)城へ到着すると攻撃を開始。
根来・雑賀衆は秀吉軍の先鋒が攻撃を仕掛けてくると城内にあった鉄砲を総動員して、
一斉射撃を秀次・秀政軍へ行います。
このため先鋒の二武将の軍勢は根来衆達の圧倒的な火力のため、
大損害を受けることになります。
秀次・秀政の両武将は小牧長久手での失敗を取り戻すため、
自軍の被害を省みることなく猛攻を行い、千石堀城の二の丸を攻略することに成功。
両部隊は千石堀城の本丸へ攻撃を仕掛けるべく攻撃を開始しますが、
本丸攻撃軍にも雨のような鉄砲射撃が行われることになり、
再び大損害を受けてしまいます。
だが秀次・秀政両軍の攻撃が千石堀城の火薬庫に偶然引火し、
大爆発を起こしたことがきっかけで両部隊の激しい攻撃をうけた千石堀城は陥落。
篭城していた百姓や僧兵は殲滅されることになります。
こうして激しい攻防戦を繰り広げ千石堀城での戦いは終りを告げることになります。
そしてこの千石堀城の戦いに勝利した秀吉軍は、
根来衆が構築した防衛ラインを次々と突破していくことになり、
根来衆の防衛が破られることになります。
そして戦いは根来衆と共同していた雑賀衆の本拠地である
太田(おおたじょう)城に攻防戦は移行する事になります。
必殺技が使えそうだな
秀吉は10万の軍勢の総大将として君臨しており、
雑賀衆(さいかしゅう)が篭城している大田城攻略戦を展開します。
しかし秀吉は大田城攻略戦を行う前に軍勢の再編を行います。
先鋒であった秀次と弟・羽柴秀長(はしばひでなが)を秀吉の副将とし、
細川忠興(ほそかわただおき)、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、
前野長康(まえのながやす)、蜂須賀正勝(はつすかまさかつ)らを
大田城へ向かって侵攻させます。
秀吉は軍勢を侵攻させている最中、
大田城の地形を調査させると大田城が低湿地帯に構築された城であることが判明。
そこで彼は「必殺技が使えそうだな」と側近にもらすと
すぐに大田城近くを流れる川に堤防を構築するように諸将へ命令を下し、
土木工事を開始させます。
必殺・水攻め発動
秀吉は堤防を構築することに成功すると合図を出して堤防を決壊させます。
堤防が決壊したことによって大田城近辺に流れていた川が、
一気に大田城外へ流れ込んでいきます。
こうして秀吉は備中(びっちゅう)・高松(たかまつ)城で学んだノウハウを活かして、
大田城でも水攻めを行います。
大田城は日に日に川から水が流れ込んでいくため水かさが増していくことになり、
籠城していた兵士達の士気は下がって行くと共に、
城内に備蓄されていた食料もなくなっていくばかりで、
補給することができずになくなっていきます。
ついに決着
大田城は秀吉の必殺技である水攻めを受けながらも一ヶ月ほど籠城をしておりましたが、
ついに食料が尽きてしまいます。
秀吉は大田城内の食料が無くなったことを諜報部隊から知ると、
大田城に籠城している雑賀衆へ降伏するように呼びかけることにします。
大田城内に籠城していた雑賀衆は秀吉から送られてきた降伏勧告について、
幾日か話し合われることになりますが、兵糧がない上に城内が水攻めされたいたため、
これ以上の抵抗はできないと会議で結論が出ます。
そして大田城に籠城していた雑賀衆の幹部連は秀吉の降伏勧告を受託することに。
こうして秀吉は大田城に籠城していた雑賀衆の降伏勧告を受託し開城させることに成功。
秀吉は小牧長久手のでの恨みを晴らすことに成功し紀州征伐は完了することになります。
戦国史ライター黒田レンの独り言
雑賀衆が秀吉へ降伏する際に示された条件を大雑把に記すと
「大田城に篭城していた幹部の自害」のみでした。
そのため雑賀衆が大田城を開城して降伏時に籠城していた幹部は
自害することになります。
大田城に籠城していた兵士達は秀吉からお咎めを受けることなく、
村々に帰ることが許されておりました。
こうして紀州征伐を完了することになった秀吉。
この紀州征伐が完了する間際、
朝廷ではある官位に誰が就任するのかで揉め事が起きておりました。
そのため朝廷から秀吉へ裁定を下して欲しいと要請があり、
彼はこの朝廷での揉め事を仲裁するために難しい判断を迫られることになるのですが、
ある閃きによってこの難題を解決することになります。
参考文献 ソフトバンク新書 秀吉家臣団の内幕 滝沢弘康著など
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