羽柴秀吉。
彼は門地も後ろ盾も持たないド底辺から織田信長に仕え、
めきめきと頭角をあらわしていきます。
そして中国方面司令官に任命されて毛利氏討伐戦を繰り広げている中、
織田信長が明智光秀(あけちみつひで)に殺害されてしまう大事件が勃発。
秀吉は光秀を討伐し信長の仇討ちに成功すると織田家内部で覇権を握るべく
筆頭家老であった柴田勝家(しばたかついえ)と決戦を行い
勝利をもぎ取ることに成功します。
勝家を打倒して織田家の覇権を握った秀吉は、
信長の息子である信雄を打倒し天下一の勢力を築くことに成功します。
秀吉が信雄に勝利を得た頃、朝廷では争いごとが発生しておりました。
この争いごとを仲裁してもらうべく秀吉の元へ仲裁依頼がやってくることになるのですが、
この依頼がきっかけとなり秀吉は天下に大きな一歩を踏み出すことになるのです。
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高位の位を得る
秀吉は織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康連合軍と小牧(こまき)・長久手(ながくて)で、
激戦を繰り広げておりました。
この戦いは秀吉に有利な条件で織田信雄と講和したことで決着がつくのですが、
この講和条約が結ばれたとき、
朝廷から秀吉の時代の武将達の中で就任している最高位の位を下賜されることになります。
それは従三位の官位である権大納言(ごんだいなごん)です。
当時は織田信雄が武将の中で一番高位の位についており、
左近衛権中将(さこんえごんのちゅうしょう)でした。
しかし信雄の位を飛び越えて秀吉が上位にたったことで、
織田信長の後継者として朝廷から認められることになるのです。
天皇を補佐する関白に就任
秀吉は従三位のくらいである権大納言に就任した翌年、
なんと関白(かんぱく)の位に就任することになり、
日本の歴史史上初、天皇の補佐を武家がすることになる政治体制が出来上がることになり、
秀吉が天下人の名実を得ることになるのです。
では秀吉はどうして関白(かんぱく)の位を得ることができたのでしょうか。
関白に就任することになったきっかけとは
秀吉が天皇を補佐する役職である関白に就任することができたのは、
一体どうしてなのでしょうか。
秀吉が関白に就任することができたのは公家同士の争いがきっかけでした。
当時左大臣(さだいじん)に就任していた近衛信輔(このえのぶすけ)は、
関白の位を兼任したいと要望を出します。
すると二か月前に関白に就任していた二条昭実(にじょうあきざね)という公家さんが激怒し、
「ふざけんな。まろは関白になったばかりなのになんで譲らなければならないんだ」と反論。
この関白兼任問題は一向に決着することがなく、信輔は秀吉に裁定を仰ぐことにします。
秀吉は「私がこの問題を解決するためどちらかの家に味方すれば、
一方の家は無くなってしまうのではないか。
そうなるのは心苦しいので、私が関白に就任することにしよう」と
二人の公家に自らの意見を述べます。
この秀吉の意見を聞いた昭実は驚きのあまり言葉を失ってしまいます。
また信輔は秀吉の言葉を聞いて激怒してしまいます。
信輔の反論
信輔は秀吉の言葉を聞いて激怒し「関白の役職に就くことができるのは、
二条、九条(くじょう)、一条(いちじょう)、近衛、鷹司(たかつかさ)の五摂家だけが、
就任できるのであります。
これら以外の者が就任できるわけがないのです。父上」と
父に向かって愚痴を漏らしておりました。
信輔の父・近衛前久(このえさきひさ)は息子へ「秀吉殿は我が近衛家に養子として
入ることになった。だから関白就任の条件は満たされることになる」と語ります。
この父の話を聞いた信輔は再び激怒し
「父上。なんであんなどこの馬の骨ともしれない者を名誉ある近衛の家に養子として迎えるのです。
勘弁してくださいよ」と語気を荒げながら反論します。
その後前久は息子を何度も説得して「近衛の家を再興するためには必要なことなのだ。
またいずれお前に関白を就任させてやるからここは我慢してくれないか」と述べます。
信輔は「・・・・。分かりました。近衛の家のためです。私も我慢しましょう」と
父の言葉に頷くことになります。
こうして秀吉は1000石の知行を近衛家に与える事と
信輔にいずれ関白の位を譲ることを条件に近衛の家に養子として入ることになり、
関白の位へ就任することになります。
しかし秀吉はどうして朝廷の位である関白に就任したのでしょうか。
武家なら征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)に就任して幕府を開くことを望みとしており、
源頼朝(みなもとのよりとも)や
足利尊氏(あしかがたかうじ)も征夷大将軍に就任して幕府を開設しております。
なぜ秀吉は征夷大将軍ではなく関白へ就任したのでしょうか。
天下人は好きな物に就任できる
秀吉はどうして関白へ就任したのか。
この疑問を解決する糸口として彼の主君であった信長の事例を見てみるのがいいでしょう。
信長は武田勝頼(たけだかつより)を討伐したことによって、
戦国時代の日本において最大の領土を保有することになります。
朝廷から「関白か太政大臣(だじょうだいじん)の位につかないか」と言われておりました。
ついでに太政大臣とは日本の朝廷の中で一番偉い位にあり、
仕事は特に何にもありません。
さらにこの役職は一人しか付くことができない超偉い官位でした。
また信長は朝廷から示された二つの官位の他にもう一つ就くことのできる位がありました。
それは足利義昭(あしかがよしあき)が就任していた征夷大将軍の位です。
信長は日本最大の領土を保有していたことからこの三つの中から好きな物を選んで、
就任することができる状態にありました。
秀吉も信長の晩年期と同じくらいの勢力を保有していたため、
朝廷の官位でなくても征夷大将軍に就いて幕府を解説することも可能でした。
しかし朝廷の公家さん達の争い仲裁の要請があったことがきっかけで、
彼は征夷大将軍よりも高位な位である関白の役職に就任することになり、
望んで関白に就任したわけではありませんでした。
もしこの公家さんたちが争うことなく関白の位が穏便に決まっていれば、
彼は征夷大将軍に就任して、幕府を開いていた可能性もあったかもしれません。
戦国史ライター黒田レンの独り言
こうして秀吉は関白就任が決定した翌年には太政大臣へと昇進することになり、
天下人として朝廷から認められることになります。
こうして名実ともに天下人として君臨することになった秀吉は、
源平藤橘(げんぺいとうきつ)の他に第五の姓を作り出すことにします。
その姓こそ「豊臣(とよとみ)」であり秀吉自ら豊臣の姓を名乗ることになり、
皆さんが歴史の教科書で一度は聞いたことのある関白・豊臣秀吉(とよとみひでよし)が、
誕生することになるのです。
こうして秀吉は自らを天下人として認めてくれた天皇と朝廷を自らの政権内に含んだ
新しい政治体制築いていくことに。
そして秀吉はこの関白職を積極的に政治の舞台で利用していくことになります。
こうして朝廷で天下人として認められた秀吉は、
中国地方の覇者・毛利家との約束を果たすため、
四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が統治している四国へ
攻め入ることになります。
ですが長宗我部元親が治める四国討伐を行う際には、
天下人となった秀吉に大義名分が必要となります。
秀吉は一体どのような大義を掲げて四国討伐を行うのでしょうか。
参考文献 講談社現代新書 天下統一 黒嶋敏著など
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