【王平の戦いが凄い】文字は10個しか知らないけれど軍事において抜群の才能を示した戦い

2017年10月4日


 

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王平(おうへい)

元々魏に属しておりましたが、漢中征伐の時に劉備軍に降伏して加わることになります。

彼はその後着々と武功をあげて昇進していくことになり、

孔明亡き後の蜀軍では軍事面においてトップクラスの人材と言える武将へと

成長することになります。

そんな彼ですが曹爽(そうそう)が漢中へ攻撃を仕掛けてきた際、

見事に魏軍を蹴散らす大活躍をしており、

今回は曹爽が攻撃を仕掛けてきた漢中戦での彼の活躍についてご紹介したいと思います。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呉懿の部下として漢中を守備

 

諸葛孔明が五丈原で亡くなると車騎将軍(しゃきしょうぐん)の呉懿(ごい)の部下として、

漢中守備を命じられることになります。

その後呉懿が亡くなると漢中の総司令官として任されることになります。

こうして軍事の才能を持った武将が払拭していた蜀軍内において、

軍事を担うトップクラスの人材として成長していくことになるのです。

 

曹魏の軍勢が攻め寄せてくる

 

曹魏の重臣として幼い皇帝を支えることになった曹爽。

彼は皇族である曹真の息子であり、名声は魏の内部において十分に轟いておりました。

しかし彼に足りなかったのは軍事における実績でした。

そのため曹爽は魏軍を率いて蜀を討伐するべきであると朝議の席で声高に訴え、

ついに蜀を討伐する軍事行動を起こすことに成功。

曹爽の軍勢は歩兵・騎兵合わせて10万ほどの大軍を率いて蜀の漢中目指して、

突き進んでいきます。

漢中に駐在していた諸将は曹魏の軍勢が10万の大軍を率いて蜀に侵攻している報告を聞くと驚きます。

彼らは王平へ「漢中に留まっている兵力では魏軍に対抗することは難しいと考えます。

そこで我らは漢中を捨てて漢城と楽城の二城を守るべきであると考えます。

この二城で敵軍の攻撃を守っていれば、

費禕(ひい)様が蜀軍の本体を率いて救援に来てくれましょう」と進言。

しかし王平はこの進言を却下して次のように述べます。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

王平の策とは

 

王平は諸将へ「漢中を放棄するのではなく興勢山(こうせいざん)に劉敏(りゅうびん)と

杜祺(とき)を派遣して篭城させるのがいいであろう。

しかし魏軍が兵を分けて黄金谷へ向かってくるようなことがあるかもしれない。

その場合を考えてわし自ら軍勢を率いて黄金谷に駐屯して、

魏軍が向かってきたら自ら山を駆け下りて逆落としをかけて迎撃しよう。

そうしている内に費禕殿が軍勢を率いてやってくるであろう」と述べます。

諸将は王平の作戦通りに軍勢を展開することになります。

魏軍は王平の作戦にハマり、

興勢山から先に進もうとするも黄金谷で待ち受けていた王平軍の攻撃を受けてしまいます。

また王平軍と興勢山の蜀軍を打ち破ることができず時間だけがだらだらと流れていきます。

そうこうしている内に蜀の大将軍である費禕の本隊がやってきてしまったため、

魏軍は撤退することになってしまうのでした。

王平の策がバッチリはまった戦いで、この戦いを後に興勢の役と呼ばれることになります。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

正史三国志を書いた陳寿は「王平は10字しか文字を知らなかったが、

読み書きができる部下に史記や漢書(かんじょ)を読んでもらい、

勉学に励んでいた。

また蜀の法律やルールをしっかりと守り、冗談を一切わない人であった。

このように彼は優れていたが、

唯一の欠点として軽はずみで偏狭を持っていた人物であったのが欠点である」と

評価を下しております。

 

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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