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孫呉の二代目丞相・顧雍に迫る!正史三国志・呉書からみた丞相の実績

2017年12月1日


 

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孫呉は滅亡するまでに9人もの丞相を任命しております。

 

この9人の中で初代丞相から跡を継いで二代目丞相に就任した顧雍(こよう)に光を当ててみたいと思います。顧雍は丞相になると孫呉の政策を孫権に進言して採用された場合、自らの意見を前面に押し出すことなく孫権が立案・実施した事にして、君主を立てておりました。

 

また顧雍が提案した政策が取り立てられなかった場合、絶対に提案した政策を他人に漏らすことなく秘密にしておりました。顧雍のこうした配慮を気に入った孫権は顧雍を信頼して重用していくことに。そんな二代目丞相・顧雍の実績とは一体なんなのでしょうか。今回は正史三国志・呉書から顧雍の実績を調べてみました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫呉の二代目丞相・顧雍の実績その1:人材登用は能力のみを判断基準に・・・・

 

孫呉の二代目丞相・顧雍の実績その1としては、人材登用は能力のみを判断基準にしているところです。これはどのようなことなのかご紹介しましょう。顧雍は丞相に就任すると孫呉を支える人材を登用するべく行動を開始。顧雍が人材登用する際、武将や文官達が任務に適した能力を持っているのかを判断の基準としておりました。

 

顧雍に任命された武将や文官達は命令された任務をしっかりとこなしていたそうです。また顧雍が好きな人や嫌いな人など好悪を判断要素に一切加えなかったため、周りの武将や文官達から批判されることもありませんでした。蜀の丞相として有名な諸葛孔明も嫌いな人物でも優秀であれば、すぐに登用して重用していおりました。もしかしたら顧雍は同盟国で蜀の丞相・諸葛孔明の人材活用法を真似たのかもしれませんね。

 

 

孫呉の二代目丞相・顧雍の実績その2:民衆の意見に耳を傾ける

 

孫呉の二代目丞相・顧雍の実績その2としては民衆の意見に耳を傾けていたところです。顧雍は新しい政務や現状の法令に手を加えるときには、町や市場に出て民衆の話を聞いていたそうです。ある時孫権は張昭(ちょうしょう)や顧雍など孫呉の重鎮と言われる政治家を集めて、政務や法令などに関する不備があるかどうか尋ねます。

 

張昭も民衆たちの意見に耳を傾けていた政治家であったため、孫権へ「民衆達は法令が煩雑で分かりにくく、刑罰が重いと嘆いております。そこで刑罰を軽くし法令を簡単にするのがいいと考えます。」と提案。孫権は張昭の意見を聞いて少し不満げな顔をします。そして孫権は丞相である顧雍へ「君はどのように思う」と意見を投げます。すると顧雍も「私も張昭殿と同じ意見です。

 

すぐに法令を簡単にして刑罰を軽くするのがいいでしょう」と提案したそうです。孫権は重鎮・張昭と信頼を傾けている丞相・顧雍から同じ意見が出てきたため、法令を簡単にして刑罰を軽くしたそうです。この事から分かるように民衆の意見をよく聞いて政治に反映させ、自分の意見を遠慮なく言っていた政治家であることがお分かりになると思います。

 

春秋時代後期に登場した鄭(てい)の名宰相・子産(しさん)も顧雍のように民衆達の生活をよりよくするための政治を行っていました。もしかしたら顧雍も子産のやり方を真似たのかもしれませんね。

 

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孫呉の二代目丞相・顧雍の実績その3:武将達の意見をきっぱりと退ける

 

孫呉の二代目丞相・顧雍の実績その3としては武将達の意見をきっぱりと退けるです。顧雍は丞相として孫呉の政務を切り盛りしていました。そんな中、長江(ちょうこう)沿岸に駐屯していた武将達は、手柄を立てて立身出世を望んでおりました。

 

そこで武将達は孫権へ「奇襲を魏の領土にかけて領土を奪うべきである」などの進言を繰り返ししておりました。孫権は武将達から同じような意見が幾度もやってくるので、丞相・顧雍を呼んで相談。顧雍は孫権から相談を受けると「戦で小さな利益を追求するのはよくないと聞いたことがあります。

 

現在陛下へこのような意見を進言してくる武将達は、自分達が勲功を上げて立身出世を果たそうとしている者達ばかりで、孫呉の国家を再優先に考えているわけでないかと思います。そのため武将達の進言は取り上げるべきではありません」ときっぱりと退けます。よく考えれば顧雍が孫権へ「武将達の進言を却下すべきである」と言った事は、すごい勇気があることだと思います。なぜ勇気がある事なのか。

 

それは顧雍が孫権へ武将達の意見を取り上げないようにと進言したことが、武将達に知られてしまえば、顧雍を恨んで孫権へ顧雍の悪口を言いまくって口撃してくるかもしれません。最初の内は孫権も武将達の意見に耳を貸すこなく一喝して終わりかもしれませんが、幾度も幾度も顧雍の悪口を吹き込まれてしまえばいかに名君であった孫権でも、顧雍を処罰しなければならないかもしれません。このことを考慮すれば顧雍が武将達の進言を却下するべきであると孫権へ進言したのは、すごい勇気のいることであり公平無私な人物であった顧雍だからこそできたのだなとレンは考えます。

 

 

「おまけ編」二代目丞相・顧雍は息子にも厳しかった

 

最後に二代目丞相顧雍のおまけ編をご紹介したいと思います。公平無私で厳格であり常に国家のことを考えていた顧雍。そんな丞相・顧雍ですが、息子には非常に厳しい人だったそうです。孫権は顧雍と息子、孫を私邸に呼んで宴会を開いたことがありました。

 

顧雍の孫である顧譚は孫権から信頼を持って接していたことや酒が入って酔っていたこともあり調子に乗って孫権の前で三回も舞を舞ってしまいます。顧雍は孫が三回も君主の前で舞を舞っている事に激怒。家に帰ると孫を呼んで「臣下は君主の前でつつしみ深くしている者だ。

 

劉邦と簫何(蕭何)

 

前漢の蕭何(しょうか)は高祖・劉邦(りゅうほう)の前では口を聞いていなかったそうだ。また後漢の雲台二十八将の一人・呉漢(ごかん)は、光武帝(こうぶてい)の武将として連戦連勝していたにも関わらず、驕ることなく光武帝に忠誠を誓っていたそうだ。

 

お前はこの二人よりも戦功なく歴史に名前を刻むようなことを何もしていないのに、陛下から信頼を受けていることをいい事に調子づいてなぜ陛下の眼前で、舞を舞い続けていたのだ。酒が入って酔っていたから舞を舞ったのはまだ許せる。しかし三度も陛下の前で舞を舞っていいわけがないだろう。

 

このバカタレが!!」と激怒。顧雍は孫に散々大声で激怒した後疲れたのかふて寝。そして孫は顧雍の前で二時間以上立ちながら反省していたそうです。顧雍は身内にも非常に厳しかったからこそ、誰からも恨まれたり妬まれたりされずに孫呉の政権を切り盛りすることが、できたのではないのでしょうか。

 

楚漢戦争

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

 

孫呉の二代目丞相・顧雍の実績をご紹介しました。公平無私で私心によって政権を動かしていないことがお分かりになったと思います。顧雍の死後丞相に就任した陸遜(りくそん)も顧雍と同じように国家のことだけを考えて、政治や軍事を行っていた人物でした。

 

孫呉は蜀や魏に比べてあまり有名ではないですが、このように優れた丞相を何人も配下に持っていた孫権は、蜀や魏と比べても遜色ない程人材に恵まれていたと言えるのではないのでしょうか。

 

参考 ちくま学芸文庫 正史三国志・呉書 小南一郎著など

 

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二宮の変

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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