漢字、漢民族、漢(おとこ)など、漢の名前を冠した言葉は幾つかあります。これらは、紀元前202年に西楚の覇王、項羽(こうう)を倒して劉邦(りゅうほう)が建国した王朝、前漢(ぜんかん)に由来しています。
三国志の英雄、劉備(りゅうび)の遠い祖先でもある劉邦この人物は、一体、どのような人生を送ったのでしょうか?
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この記事の目次
中国史上でただ二人、百姓から頂点を極めた男
劉邦(BC257・247~BC195年)は字を季(き)といい沛県郡、豊県、中陽里という小さな村に産まれました。劉邦の字の季とは、末っ子という意味で、上に劉伯(りゅうはく)、次男に劉喜(りゅうき)、異母兄弟に劉交(りゅうこう)がいます。父は劉太公、母は劉媼(りゅうおん)と言いますが父母に関しては名前が伝わっておらず、太公はお爺さん、媼はお婆さんという意味です。
そこから分かるのは、劉邦の家は系図など存在しない百姓家だったという事で中国の長い歴史でも百姓から出発して、皇帝に即位したのは劉邦と明を建国した朱元璋(しゅげんしょう)のたった二人だけです。
怠け者のヤクザなのに何故か周囲に愛された劉邦
さて、劉邦ですが、百姓の家に生まれながら野良仕事が大嫌いでした。生家は、百姓でも、異母兄弟がいる位ですから、父は豪農だったかも知れません。
それを幸いに、劉邦は成人してもぶらぶらと遊び歩き、当時、大人物として名前が知られていた魏の信陵君(しんりょうくん)に憧れ、任侠の世界に飛び込んで、あちこちを渡り歩き、身を固めようともしません。
しかし、仕事を頼んでも身を入れず、失敗したり投げ出したりの劉邦は何故か人に好かれる不思議な愛嬌の持ち主でした。彼の失敗は何故か周囲がフォローしてくれて、劉邦は逮捕されたり罰を受けさせられたりするような事もなかったのです。
また劉邦は、体が大きく威風堂々としていて、顔も面長で立派な黒々したヒゲを蓄えていました。つまり、定職にもつかない癖に見た目は立派だったのです。そんな彼は、お金も持たずに居酒屋で飲み食いしましたが、劉邦の立派な顔相を見る為に大勢人が集まり居酒屋は繁盛したので店主は劉邦に無料酒を飲ましたと言います。
劉邦、亭長に抜擢、しかし時代の波が劉邦を飲みこむ
さて、40歳を過ぎた劉邦は相変わらず、子分達を集めて、無為徒食を繰り返していましたが、とある縁で亭長という最下級の役職を与えられます。
亭長は、村の治安を乱すような人間がいたら捕まえる自警団に毛が生えたような仕事ですが、腕っ節の強い子分を抱えた劉邦に悪さをさせるより亭長にして、無駄に多いエネルギーを村の為に役立てようという思惑があったようです。ところが、亭長をしていた劉邦に秦の役人から人夫を引率して始皇帝の墓である驪山陵(りざんりょう)の建設に従事するように命令が下ります。
劉邦が集めた人夫が続々逃亡、その時、劉邦は?
しかし、驪山陵での労働は激しく、死人が出るような大工事であるという噂は、田舎の中陽里にまで伝わっていました。劉邦は、村人をなだめすかして、何とか規定の人数を集めますが、村を出発してから、10日も経たない間に、半分もの人夫が逃亡しました。
秦の法律では、人夫を管理するのは引率責任者の仕事です。もし、定められた人数を連れてこれなければ、引率者は罪人として逮捕され今度は強制労働で死ぬまで働かされます。劉邦は数日、やけ酒を浴びる程飲んだ挙句、残った人夫を集めました。
「お前達も知っている通り、最初いた人夫はもう半分もいねえ、秦の法律では、このまま咸陽まで行っても、俺は罪人として強制労働だ。だからよ、俺も逃げる事に決めた!お前達も、それぞれ逃げていいぞ」
劉邦の逃げる発言に人夫達に動揺が走りました。
「そんなぁ、、そうしたらオラ達はどうなるんですか?
このまま田舎に帰ったら秦の役人に捕まります」
「しゃあねえだろ、、皆逃げちまうんだから、、でも、
どうしてもって言うなら、俺と一緒に沼沢に隠れて山賊させてもいいぞ」
どこにも行き場がない人夫達は、劉邦の子分になり、こうして劉邦は、山賊の親玉になってしまうのです。
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陳勝(ちんしょう)、呉広(ごこう)の乱勃発、劉邦沛公になる!
このままでは死んでも故郷には戻れない劉邦一行ですが、ここで歴史は大きく動きます。始皇帝が紀元前210年に死に、翌年には、陳勝と呉広という人物が反乱を起し、これが100万人規模の大反乱になったのです。各地で、秦が派遣した役人の長官や県令が殺され、反乱軍が実力で王を名乗るという下剋上の時代がやってきました。
劉邦の故郷である沛県でも、県令がいつ反乱軍に討たれるかと怯えていました。県令というのは、中央から派遣されてくるので地元に人脈がなく、このような反乱が起きても、民衆を組織するという事が出来ませんでした。
そこで、曹参(そうしん)や䔥何(しょうか)というような劉邦と仲が良い人々は県令に吹き込みます。
「劉邦は今は山賊として沼沢に隠れているが数百の手勢がいるし人望もある。なので劉邦を将軍としてあなたは、それを従える形にすればいい」
沛の県令は、この提案に飛び付き、すぐに劉邦を沛に呼び戻すように言います。ところが、実際に劉邦が手下を連れてくると考えを変えて沛の城門を閉じます。
「䔥何!曹参! 貴様達は、ワシを騙し、劉邦を城に入れてワシを亡きモノにするつもりであろう!そうはさせんぞ」
䔥何と曹参は投獄されてしまいますが、劉邦は事情を知ると弓矢に絹の布を巻いて城内に放ちました。絹には「県令を担いでも、いずれは反乱軍に敗れ、沛は蹂躙されるだろう、それよりは、有徳の人物(劉邦の意)を担いで防備を固めた方が得だ」と書いてありました。
沛の人々は、普段から県令に良い印象がないので手紙の内容をもっともだと思い徒党を組んで県令の役所に押し入り、命乞いをする県令の首を刎ねて、門を開きました。
こうして劉邦は、山賊から一転し、沛県の長になり沛公と呼ばれます。劉邦は山賊になって以来疎遠だった、夏候嬰(かこうえい)や周勃(しゅうぼつ)樊繪(はんかい)、曹参、䔥何、王陵(おうりょう)というような人材と再会し自らの臣下とします。
劉邦、反秦連合軍に参加する
劉邦が沛公になって間もなく、100万を数えた陳勝の反乱軍は権力争いと秦の名将、章邯(しょうかん)の攻撃で崩壊、陳勝の後を継いだ者達も新しく江南から起きた項梁(こうりょう)と項羽(こうう)という反乱軍により撃破されます。
項梁は、陳勝のように自ら王を名乗らず、楚の懐王(かいおう)の子孫を探し出して王位に就けて、楚国を再興させたので、これまで陳勝の叛乱には同調しなかった人々までが続々と項梁の下に終結し一大勢力になります。劉邦も、そのまま単独で反乱軍をしていると討伐されかねないので、あっさりと項梁の興した反秦連合軍に入ります。
ラッキーボーイ劉邦 秦の帝都咸陽を落す
反秦連合軍を組織した項梁でしたが、連戦連勝で次第に秦を侮るようになりその隙に乗じた章邯によって破られ殺害されます。士気の低下した反秦連合軍は、秦の帝都、咸陽を落して一気に秦を滅ぼすべく二つの部隊を組織しました。一つは10万の楚軍の精鋭を率いた項梁の甥、項羽が率いる本隊です。もう一つは、1万の弱兵を率いた劉邦の別働隊でした。
両軍は、一路咸陽を目指しますが、項羽は大軍故に立ち塞がる勢力を次々と攻め滅ぼさないといけない上に、しばしば残虐な方法で捕虜を殺したので、次第に人望を失い、天下に悪評が立ち始めます。一方の劉邦は弱兵故に可能な限りは戦を避けて、コソコソと隠密行軍をします。やむなく戦う場合でも、降伏した敵の大将を殺さずそのまま楚軍として城を守らせるなど寛大な処置を取った為に、逆に劉邦の名声は高まります。
そして、ノーマークだった劉邦の別働隊は、秦の関所である武関(ぶかん)と嶢関(ぎょうかん)を突破、咸陽に入城して、秦を滅ぼしました。
この当時、敗れた国は戦利品として蹂躙され略奪、放火、殺人、婦女暴行などあらゆる犯罪が起きるのが当たり前でしたが、劉邦は部下に一切の略奪を禁じて宮殿の宝物も封印して背後に下がっていました。また、複雑で厳しい秦の法律を廃止して簡単な法に変えたので、秦の人々は、皆劉邦を称え、劉邦に王になって欲しいと望まない者はいませんでした。
ラッキーボーイ劉邦はこうして項羽を差し置いて大手柄を立てます。
項羽と劉邦、天下を巡り対立する
項羽は、劉邦より遅れて咸陽に入りますが関所が閉じられていた事に激怒し軍勢でもってこれを撃ち破ります。
劉邦は、怒り狂う項羽に、ひたすらに謝罪して窮地を脱しますが、項羽は劉邦が助命した秦の3世皇帝を殺し、咸陽で略奪をほしいままにします。すべてを奪われた咸陽の人民は骨の髄から項羽を恨みました。
こうして、秦を滅ぼした項羽は、もはや用済みと楚の懐王を放り出し、自ら、西楚の覇王と名乗って天下に号令します。しかも、天下統一に功績があった諸侯達には恩賞を出し惜しみし、自分の身内ばかりに手厚い恩賞を与えたので諸候は怒り狂い、国に帰るや項羽に反旗を翻します。
劉邦は、秦よりもさらに西の巴蜀の地に追放され漢中王として閉じ込められます。ですが、項羽が各地の反乱軍の鎮圧に忙しい合間に巴蜀を脱出し、秦が拠点とした穀倉地帯の関中に拠点を置いて項羽に反旗を翻しました。
負け続ける劉邦、でも追い詰められる項羽なんで?
劉邦はこうして、項羽と矛を交えるようになりますが、劉邦は強い項羽に連戦連敗。毎回、毎回、追いまくられ命からがら脱出するというパターンを繰り返します。ところが、戦争を始めて2年が経過すると勝っている筈の項羽が息切れを起すようになります。それは何故でしょうか?
実は、劉邦は一人で戦っているわけではなく、ゲリラ戦の名人である彭越(ほうえつ)には、項羽軍の補給を攪乱させ、戦の天才である韓信(かんしん)には、別働隊を率いさせて、中立や項羽の側についている諸候を撃破させていました。
また、項羽に匹敵する武力を持つと言われた猛将の黥布(げいふ)も項羽との仲違いを利用して味方に引き抜いて項羽の配下を攻撃させていましたし、劉邦自身は関中にいて兵力と食糧を送ってくる䔥何のお陰で全滅しなかったのです。
それに、劉邦には、張良(ちょうりょう)や陳平(ちんぺい)と言った軍師がいましたが、項羽は天下の智者と言われた范増(はんぞう)の助言を聞かず、最後には首にしていました。
いくら強くても、たった一人の項羽は、もぐら叩きのように代わる代わる出て来る劉邦の軍勢に疲れ果て、最後には決定的な敗北を喫して自殺しました。
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三国志ライターKawausoの独り言
劉邦は東洋人の考える理想的なリーダーと言えます。気前よく恩賞を与え、仕事ではうるさい事を言わず全て部下に任せ責任は自分が取る。そして、自らは泰然と構えて少しも動じない。自己責任論が優勢な今だから、逆に部下の責任まで悠然と飲みこむ劉邦のようなリーダーが求められるかも知れません。