蜂蜜は豊富なアミノ酸を含む健康食品で、現在でも人気があります。三国志の時代には、すでに蜂蜜を水で割った甘い飲み物があり貴族が愛好しました。
あの宇宙の帝王、袁術(えんじゅつ)が戦に敗れて落ち延びている途中でも「こりゃ、蜂蜜水を大至急!」と料理人に要求し「水と血しかねーよサル!」と返され絶望して血を吐いて死ぬほどに、袁術は蜂蜜が大好きでした。そんな蜂蜜ですが、漢の時代の中国では、すでに養蜂が始まっていたそうなのです。
関連記事:袁術の側室・馮氏(ふうし)の憐れな偽装死にも気づかなかった鈍感・袁術エピソード
この記事の目次
ドロップアウトした後漢の姜岐が養蜂を開始し大成功
「高士伝」によると養蜂技術を大成させたのは後漢の姜岐(きょうき)という人です。元々、漢陽郡の名士でしたが、太守の喬玄(きょうげん)に出仕するように命じられます。
しかし、姜岐は、母の看病をしたいと言って出仕せず、喬玄は面子を潰され激怒、督郵を派遣して「お前が出仕しないなら、お前の母を嫁にする」と無理難題を告げ結局、強引な喬玄に対して非難がまきおこり、姜岐は隠居して母の看病に励みます。
母の死後、姜岐は、今風に言えば、ベンチャービジネスとして、養蜂に取り組んで成功したと言われているのです。姜岐は蜂を研究し、蜂の性質から指向、住処、採集、分房、防疫法などを研究し、商売として成り立つ養蜂を確立し、弟子は天下に満ちて、養蜂で生計を立てる人々は300人を越えました。
袁術の大好きな蜂蜜だって、このような養蜂業者によって供給されたものでしょう、ええ、そうに違いないのです。
後漢の争乱が原因か、、姜岐の技術は散逸する
ところが、一時は隆盛を極めた養蜂業は、姜岐の死後には下火になります。具体的な理由は不明ですが、嗜好品の蜂蜜は後漢末の争乱で需要が激減したり養蜂場が戦乱で荒らされたりしたせいかも知れません。こうして、折角、始まった養蜂は20世紀まで頓挫してしまいました。
晋の張華が僅かに養蜂の方法を記録
失われた養蜂の技術ですが、晋の時代に博物志を著した天才、晋の張華(ちょうか)が姜岐の開始した養蜂の技術の分房(ぶんぼう)の一端を記しています。
それによると、巣箱を造るには、まず木箱に一つ小穴を明けその周辺に蜜を塗り、蜂の動きが活発になる春先に、働き蜂を2~3匹入れるのだそうです。こうして、放置すると、働き蜂は巣箱を飛び出して、朝夕野原に飛んでいき、蜜を採取すると同時に仲間を連れて来て、巣箱に住むようになります。
このような方法は現在知られている養蜂のやり方に似ていて、あるいは、姜岐が生みだした方法であるかもしれないとの事です。ただ、張華の博物志では、毎年3~4月に蜂が黒蜂(女王蜂)を生み、それを将蜂とか相蜂と言うというような記述がなく、あくまでも姜岐の記述を断片的に記録したものに過ぎません。やはり、姜岐の養蜂術の大半は歴史の闇に消えてしまったようです。
巣箱ではなく、松の木を抉って巣箱にする方法
蜂の巣箱については、別の方法も伝わっていて、巣箱ではなく、松の木のような木を抉って、巣箱を造り、その周辺に蜜を塗り、蜂を集めるという方法もあったようです。これは、蜜蜂の天敵である鼠や蛇の害を避ける為に有効な方法で、このような方法で、自家製養蜂をする人は時々いたようです。
関連記事:袁術はそんなに悪くない、自叙伝で袁術を庇っていた曹操
関連記事:【そもそも論】どうして袁紹や袁術には力があったの?
儲かった養蜂 億万長者になった明の養蜂家
養蜂は、蜜だけでなく、蝋燭の原料である蜜蝋も得れる事から、大変に儲けの多いビジネスだったようです。元末の時代、朱元璋(しゅげんしょう)に仕えて、天下統一に貢献した軍師で政治家、劉基(りゅうき)が著した「郁離子」には、霊丘で養蜂を行った名人がいて、蜜を年に数百石、蝋も数百石生産して、王侯に匹敵する財産を得たという話があります。
明の時代でも蜂蜜と蜜蝋がいかに高価だったか分かりますが、同時にこの養蜂家も、息子の代になると蜂の管理が杜撰になりあっという間に商売も傾いた事も記録されているのです。生き物相手のビジネスなので、儲かりもしたが養蜂を安定させるには相当な神経も使ったようですね。
三国志ライターkawausoの独り言
養蜂が袁術の生きていた漢の時代に盛んになっていたというのは面白いですね。袁術は、袁家専用の果樹園なども持っていましたが、もしかすると、お抱えの養蜂家もいて、好きなだけ蜂蜜水が飲める身分だったかも知れません。さすがは、スーパー金持ち、四世三公袁家の御曹司ですね。
※参考:中国社会風俗史 尚秉和:秋田成明 358P
関連記事:袁渙の「政治力」がスゴイ!はちみつおじさん袁術と虎の如き強さを持った呂布を大人しくさせた政治とは?
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—