2018年のNHK大河ドラマ西郷どん ファンの人気を集めたのは、ハリウッドスター渡辺謙さん演じる島津斉彬(しまづ・なりあきら)でした。現在の所、父である藩主、島津斉興(なりおき)との確執で世継ぎのままですがやがて、彼は薩摩藩を継いで、11代の藩主になります。
そして、積極的に人材を発掘し、有能だけど身分が低かった西郷どんや、大久保利通(おおくぼ・としみち)を引き立てていくのです。
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島津斉彬(しまづなりあきら)は西郷どんでも登場している重要人物
冒頭で説明した通り、島津斉彬は、西郷どんの第一話から登場します。彼は、薩摩藩の大名になるばかりではなく、高い先見性を持ち江戸260年間でも、屈指の名君とも言われています。父との確執で43になるまで藩主の座に座れませんでしたが、死没するまでの7年間に、近代化に必要不可欠な鋼鉄を造るための、溶鉱炉や反射炉を建設し、地雷、水雷、ガラス、ガス灯などを製作蒸気機関を研究して日本最初の蒸気船、雲行丸を竣工させるなど明治日本の歩みを先取りしたかのような活躍をします。
また、個人としても蘭癖(らんぺき:西洋オタク)として有名で当時の最先端の科学である写真機を自ら操作して娘達を撮影するなど西洋の先進技術をどんどん取りいれて吸収しています。さらに柔軟な思考で身分に捉われず、薩摩藩士の若き才能を次々に発掘して明治維新を後押ししています。特に西郷どんにとっては、斉彬との出会いがなければ、後の西郷隆盛は無いというほどの大恩人なのです。
島津斉彬の年表
島津斉彬のザックリ年表は以下の通りです。
1809年:10代藩主島津斉興の正室弥(いや)姫の長男として誕生
1825年:11代将軍、徳川家斉(いえなり)の一字をもらい斉彬と改名
1826年:江戸において、シーボルトから医学と物理の講義を受ける
1849年:斉興の後継者を巡り、藩内が嫡男斉彬派と庶子の久光派に分裂
お由良騒動となり、斉彬派の13名が切腹、50名が謹慎・島流し
1851年:お由良騒動の責任を問われ、父斉興が幕府の圧力で隠居、斉彬が11代の薩摩藩主になり、花園製連所を設置、軍備の近代化のための技術研究や実験を開始する
1853年:ペリー浦賀に来航、徳川斉昭(なりあき)を海防事務総裁(海軍大臣)に推し大船建造の禁を解くように幕府に要請。
1854年:ペリー艦隊の再来航に備え、老中阿部より急ぎ上洛の指示がある。この時、西郷どん、斉彬の供で江戸に向かう、再度、幕府に大船建造の許可を求めて許される。
翌年、昇平丸など五隻の軍艦建造に着手、洋式紡績業の復興に着手。さらに、藩営工場の経営に本格的にのりだし、反射炉、火薬、地雷アルコールなどの製作を他藩に先駆けて実験する
1856年:11月天璋院篤姫を13代将軍、徳川家定(いえさだ)の正室にする。これで、薩摩藩と徳川家は縁続きになり幕府の政治に介入する糸口を掴む。
1858年:斉彬は、病弱な将軍家定の後継者として英明の誉れ高い一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)を推す守旧派、大老井伊直弼(いい・なおすけ)は、血統重視で紀州の徳川慶福(よしとみ)を推し、条約問題も絡み騒動になる。斉彬は直弼の独裁を止める為に藩兵を率いて上洛を準備するが、同年、8月24日、天保山で練兵を視察中、体調不良を訴えて倒れ急死。
以上、藩主であったのは、僅か7年ですが、人材育成、西洋技術の国産化など、日本の近代化に多大な足跡を残しています。
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島津斉彬の死因は何?暗殺されたの?
斉彬は、真夏の炎天下の薩摩城下で、軍事訓練を視察している最中に、体調不良を訴え、騎馬で屋敷に戻ってから倒れ回復することなく急死しました。以前は、伝染病のコレラの感染と考えられ、毒殺ではないという意見でしたが斉彬の死亡時、薩摩藩ではコレラの流行が収束している事や、ゆるやかな病状の進行それに、心臓が急激に弱るという病気の特徴から、斉彬に反対する、父、斉興や、お由良の方、久光による毒殺説が出ています。
また、斉彬には、6人の男子がいましたが、いずれも幼少で病死している事も、毒殺説に信憑性を与えていると考えられます。西郷どんは、斉彬の急死をライバルである久光派の毒殺と考えていて、それが、久光と西郷どんの不仲の原因になっています。
島津斉彬の家系図
島津斉彬は、かなり絢爛たる先祖の血筋を引いているサラブレッドのようです。母の弥姫は、鳥取藩主、池田治道と仙台藩主の伊達重村の血を引いており、その血縁の中には、織田信長、伊達政宗、そして徳川家康という、戦国の3英雄の血が入っています。
さらに、斉彬の母の弥姫は、和歌や漢籍に詳しい賢婦人と評判が高い女性で、当時、子供が生まれると乳母に預けるのが当たり前だった時代に「自分の子は自分で育てます」と言い5人の子供を自ら育て、乳も自分で与えたのだそうです。
教育面でも、自ら、左伝や史記、四書五経を子供たちに聞かせて養育し早世した二人の男子を除いては、斉彬も弟、斉敏も侯姫も、聡明な人物として評判が高くなりました。そう考えると、斉彬の聡明さは、単純に血筋だけではなく、この聡明な母の教育のお陰だったと言えますね。
島津斉彬(しまづなりあきら)の子孫と子供・娘たち
島津斉彬には、正室の恒(つね)姫の他にも、側室が4名いました。ずっと薩摩藩を継ぐ事が出来ずに江戸にいた頃につくった側室が多いようですが、英雄色を好むという事でしょうか。
そして、奥さんが多い分、斉彬は六男五女、11名という子宝長者でした。しかし、皮肉にも、斉彬の子で男子6名はいずれも夭折して成人まで生きられず、成人まで成長したのは、側室の伊集院須磨との間に生まれた暐(てる)姫、典(のり)姫寧(やす)姫の3名だけという寂しいものでした。
しかも、こちらの3名の中で、暐姫と寧姫は、島津久光の子の忠義に嫁ぎいずれも難産で病死し、長命したのは、島津珍彦(うずひこ)に嫁いだ典姫だけでした。しかし、典姫は島津珍彦との間に二男三女を生んでいずれも成人し、特に三女孝子は、三菱財閥の4代目総帥の岩崎小弥太に嫁いでいます。(小弥太と孝子の間に男子はなく、岩崎家においての血筋は絶えています)斉彬の血は、珍彦の長男の壮之助が継ぎますが、次の島津忠彦には男子はなく養子が入っています。そこから先は生きている人もいて個人情報であり資料がなく追えませんが、もしかしたら、今でもつながっているのかもしれません。
島津斉興(しまづなりあきら)との関係性
島津斉彬は、父である斉興との関係が最悪でした。通常、島津家では藩主は世継ぎが成人すると藩主の座を降りて隠居するのが通例でしたが、斉興は、斉彬が40を過ぎても隠居せずずーっと藩主の座に居座り続けたのです。
その一番大きな理由は、斉興が側室のお由良の方を寵愛し、二人の間に生まれた斉彬の異母弟である久光を藩主にしようと画策したからです。しかし、もうひとつ理由があり、それは、斉彬が彼の曽祖父で西洋好きだった島津重豪(しげひで)に似ていた事があります。この重豪は、大変に聡明な人ですが、破壊的な蘭癖(西洋オタク)で西洋の学問に没入するあまりに多額の費用をつぎ込んで、現在価格で5000億円という負債を造り、にっちもさっちもいかなくなり隠居してしまったのです。
後を継いだのは、斉興の父の斉宣(なりのぶ)でしたが、緊縮財政を強いて、重豪時代の改革路線を否定したので、隠居した重豪が怒り、斉宣とその近臣を処分して、孫の斉興を藩主としました。これを近思録(きんしろく)崩れと言いますが、この時代、薩摩藩は上から下まで貧乏のどん底を舐めました。
財政は調所広郷(ずしょ・ひろさと)というやり手の家老が出て、借金まみれからは脱却したのですが、斉興や彼の重臣には斉彬が藩主になれば同じ事が繰り返されるのではないか?という恐れがありました。だから、斉彬に藩主の座を譲るのを嫌がったのだそうです。
島津斉彬は本当に西郷隆盛と大久保利通を発掘したの?
島津斉彬は、藩主になってからは、人材登用に熱心でした。幕府の目安箱よろしく、藩内から意見を求めて、見るべき意見書には自ら朱筆を入れて返事を書いている程でした。西郷どんは、藩では下から二番目の小姓組でしたが、農政問題などで積極的に意見書を出しています、それもかなり手厳しい内容でしたが斉彬は少しも立腹せず、丁寧に返信すると同時に貧しい農民の境遇に同情し、理不尽な搾取をする藩を変えたいと燃える西郷どんの若い改革の志を買いました。
こうして、自身の江戸出立の供に西郷どんを加えて、以後はお庭番として、親しく連絡係として用いました。西郷どんは、こうして江戸に出て、斉彬の代理で幕末の実力者に会い交友を深めて行ったのです。一方の大久保一蔵とは、斉彬は親しく接していませんが、お由良騒動で、大久保が父の利世(としよ)と共にお役御免になり窮乏していたのを1853年に斉彬が謹慎を解き、大久保は記録所に復帰します。こうしてみると、大久保も斉彬が藩主になった事で間接的に、登用されたと言えるでしょうね。
斉彬のちょっといい話 篤姫の父親
島津斉彬は男尊女卑の風潮が強い薩摩人としては、かなり気配りが出来る人でした。彼は、今和泉島津氏の娘の篤姫を、実の娘と偽り13代将軍家定の正室にしますがその際に、あちこちで篤姫は自分の娘だと言いふらし、藩の公文書にも記録します。
しかし、このままだと篤姫を本当に斉彬の娘だと誤解する人が後世に出て、篤姫の本当の出自が歪められる事を斉彬は恐れます。そこで、斉彬は白木の箱を用意して、一つの文書には篤姫の父は斉彬と印しもう一つの文書は封緘した上で、篤姫の父は島津忠剛と記録して収めたのです。文書は封書の方が機密度が上ですから、後世、篤姫の出自が問題になった時に白木の箱を開ければ真実が明らかになる仕掛けでした。自分や篤姫が死んだ後のことまで、気配りが出来るのが根回し上手の島津斉彬の真骨頂だったのです。
太平天国の乱に介入し清朝に武器を売るつもりだった斉彬
名君であり気配り上手だった斉彬ですが、一方で藩財政を富ませる為には手段を選ばない人でした。斉彬が藩主になった年、1851年中国では宗教反乱である太平天国の乱が発生当初は、堕落した清朝の軍勢を打ち破り、南京を陥落させます。
斉彬は清朝の冊封体制に入っていた琉球から太平天国の動乱の情報を得て1853年には密使を長崎の出島に派遣してオランダ人から集結しつつあるペリー艦隊の情報を掴み同時に太平天国の乱の情報を探り出そうとしています。隙あらば清朝に武器を輸出する事を考えていたようです。これは斉彬、まさに武器商人であり、かなりエグイですが、日本の近代化にはお金がなくては何も出来ないのでやむを得ないのでしょう。ただ、この企みは成功せず、斉彬は急死します。
ちなみに太平天国の乱を、当初幕府や諸藩は漢族によって、満州族が放逐される滅満興漢として歓迎していましたが、太平天国がキリスト教を信奉する集団と知ると日本への波及を恐れて180度方針転換、1859年にはイギリス領事のオールコックの要請を受け太平天国の乱、鎮圧に転じた英仏軍に協力し英仏に軍馬を千頭ずつ売却しました。
1862年には幕府はイギリスから買い上げた蒸気船の千歳丸で上海経由で軍需物資を売り込んでいるので、もし斉彬が生きていれば、大変な儲けが出る戦争ビジネスに首を突っ込んだ可能性は大です。集成館事業で生み出した大砲や小銃をバンバン西洋に売却し巨万の富を得た可能性もあります。でも、そうなると後世の斉彬の評価は、また違ったでしょうね・・
西郷どんの解説者 kawausoの独り言
以上、渡辺謙さんが演じて、人気急上昇の島津斉彬について、少し詳しく解説してみました。今後も斉彬は西郷どんの師として、主君として何度も登場しますから大注目ですよ。
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