大久保利通の妻はどんな人だったの?大久保満寿子に迫る

2018年1月28日


 

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大久保利通

 

幕末三傑のひとり、明治維新を推し進め、

立ち上がったばかりの明治政府の中心人物となった大久保利通(おおくぼとしみち)

大久保利通は、幕末から明治維新までリーダーシップをとった偉人のひとりです。

この時代は、日本が内外に大きな危機の渦中にあった激動の時代であり、

きれい事だけでは、時代を動かすことなどできなかったはずです。

だからでしょうか。大久保利通には頭は切れるが、

策謀家、冷血漢、陰謀家、独裁的、

目的のためなら手段を選ばぬ男というマイナスの評価があります。

それだけ、多くの敵を作りながら、血塗られた道の中で時代を切り開いていきます。

そして、多くの敵を作った大久保利通は、日本の近代化の基礎ができたときに暗殺されました。

この強烈な個性をもった男を夫にもった妻というのは、いったいどのような女性だったのでしょうか。

とても普通の女性ではついていけそうにありません。

大久保利通の妻、大久保満寿子(おおくぼ ますこ)

彼女はいったいどのような人だったのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大久保利通の妻はどんな人だったの?

大久保満寿子

 

大久保利通は薩摩藩の下級藩士の出身です。

そして、薩摩藩の世継ぎ問題である「お遊羅騒動」に巻き込まれ、父と流刑となります。

大久保利通も蟄居処分となります。

このとき、大久保利通は20歳。

当時であれば、結婚すべき年齢です。

元々貧乏だった大久保家さらに困窮を極め、

大久保利通は結婚できるような状況にありませんでした。

当時の結婚は家と家のつながりが重要視されたのですから、

家は困窮を極め、蟄居の身分となっている大久保利通の結婚が遅くなるのは、

当然のことだったでしょう。

1857年になり、大久保利通は満寿子(ますこ)と結婚します。

大久保利通は28歳で満寿子は21歳のときです。

大久保利通は、薩摩藩主となった島津久光から高い評価を得て出世を街道に乗ります。

開明的な名君と評価される島津久光の側近として薩摩藩を動かす中心人物となっていきます。

夫が出世する中、大久保家に嫁いだ満寿子については、

どのような生活を送っていたのでしょうか。

大久保利通には三人の妹がいました。そして、父と母も存命です。

大久保利通は、冷血な印象とは裏腹に非常に家族を大事にする人物でもありました。

蟄居中には妹たちに迷惑をかけているという思いもあったでしょう。

薩摩藩の重職を担うようになった大久保利通は、家のことは妻である満寿子に任せていました。

おそらく当時の「嫁」という立場の中で三人の義妹や義父母に対し気を遣いもって接し、

重職を担っている夫に心配をかけぬよう家を守っていたのでしょう。

大久保家の中で満寿子がどのような生活を送っていたのか?

その証拠となるような史料は非常に乏しいのです。

NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」では賀来千香子さんが満寿子を演じました。

「西郷どん」ではミムラさんが満寿子となります。

フィクションによって歴史人物のイメージが作られることはよくあることです。

大久保利通の妻である満寿子のイメージもドラマの中で作られていくかもしれません。

それが真実であるのかどうかは分かりませんが、動乱の幕末期、

その中心にいた英傑の嫁のイメージをどう感じるかは、見ている人の思い次第かもしれないです。

そして、幕末期、大久保利通はその中心人物として

京都の岩倉具視と手を組み討幕方向に進んでいきます。

大久保利通は薩摩という場所に留まっていられる存在ではなくなっていきます。

明治維新により江戸幕府は消滅しますが、動乱の時代が終わったわけではありません。

明治政府の対抗する東北諸藩や旧幕臣を中心する勢力は存在していました。

大久保利通の日本近代化の道はまだ途上だったのです。

明治維新後、大久保利通は、江戸から東京となった場所に活動の拠点を移します。

そのときには、京都出身の「おゆう」という妾(愛人)がいました。

大久保利通のふたり目の妻ともよばれています。

当時、権力をもった男性が妾を持つことは普通のことであり、

現代の価値観で、大久保利通を責めることはできないでしょう。

ただ、本来の妻である満寿子は薩摩で暮らし続けました。

時代が明治となっても、5人の子どもたちを薩摩で育て、長じると東京に送り出していました。

東京の明治政府内では、盟友であった大久保利通と西郷隆盛が対立します。

西南戦争の一因となる対立でした政変が起きます。

西郷隆盛は明治政府から下野します。

彼は明治政府に敵意を持った「侍」と共に薩摩に戻りました。

薩摩で幼い子どもを育てている大久保利通の妻、

満寿子がそれをどのような思いで見ていたのかは分かりません。

夫の創りだした新しい時代により、妻は大きな苦悩を抱えたのかもしれません。

そして1874年になって、満寿子は上京します。

大久保利通は家庭では非常に子煩悩な父親であった伝わっています。

大久保利通の息子がそのような証言を残しています。

しかし、東京での家族の生活は非常に短い時間で終わりを告げました。

1878年に大久保利通は暗殺されます。

そして、その後を追うように夫の死の7か月後に満寿子もその生涯を終えました。

享年42歳です。

貧乏下級藩士の家に嫁いだと思ったら、夫はとんでもない英傑であり、

新しい時代の中心人物として、近代日本をけん引する存在になっていくのです。

彼女が妻として幸せであったのかどうか――

それは、永久に分からないことかもしれません。

 

大久保利通の家族と子孫は?

幕末時代の大久保利通

 

大久保利通はまさに「子孫に美田を残さず」という生き方もしています。

日本の近代化のために私財まで投入し、借金まで残していました。

「私欲」というものがなく、金銭的には清廉潔白な人物でした。

そして、美田を残されなかった家族と子孫たちはどうなったのでしょうか。

まず、大久保利通が子煩悩であったという言葉を残している次男の牧野伸顕は、

外交官として、日本がついに「一等国」となるパリ講和会議において次席全権大使を務めた外交官です。

名前が「大久保」ではなく「牧野」であるのは牧野家の養子になったからです。

彼は太平洋戦争中まで活躍を続けます。

日本の敗戦を予測し、和平工作を行っていきます。

また、長男の大久保利和、三男の大久保利武は貴族院議員となりました。

 

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大久保利通の家系図をみていくとあの人の名前も?

 

大久保利通の血統はその後も日本の中心に生きていきます。

その家系図を明治から昭和、平成へとたどっていきます。

まず、次男の牧野伸顕の長女である雪子は、吉田茂の妻となります。

吉田茂も外交官として活躍し、

英米派の外交官として戦争中は牧野伸顕の女婿ということもあり和平工作に動き、

敗戦後には政治家として内閣総理大臣になります。

歴代の日本の総理大臣の中でも屈指の名宰相でしょう。

そして、その血脈、家系図はさらに続きます。

 

俺達尊攘派

 

第92代内閣総理大臣となった麻生太郎氏と大久保利通の関係性

 

吉田茂の三女である和子は麻生太加吉と結婚します。「麻生」です。

もうお分かりかと思いますが、

第92代内閣総理大臣となった麻生太郎氏は大久保利通の血脈に連なる人物なのです。

その他にも英文学者の吉田健一、歴史学者として皇国史観に対抗し、

近代史研究に名を残した大久保利謙も大久保利通を起点とする家系図の中に記される人物です。

   

幕末ライター夜食の独り言

幕末ライター夜食

 

大久保利通の妻である満寿子については、多くの史料が残っているわけはありません。

当時の女性の置かれた立場からすればそれは当然のことでしょう。

実際、生年についても諸説あり、確実なものはないのです。

ここで書かれている満寿子の年齢はひとつの説でしかないのです。

それほどまでに史料はありません。

ただ、結婚する前の満寿子から見て、

大久保利通は頭が切れるという評判は聞いていただろうと思います。

逸材であるという評価も聞き及んでいたかもしれません。

結婚後、薩摩藩の中で出世してく夫は、まだ、満寿子の予想の範囲内であったかもしれません。

優秀な夫を助ける妻としての常識的な世界の中に住んでいたと思います。

それが、激動の幕末時代を迎え、

自分の夫が時代を切り開いていく存在になるとは夢想すらしてなかったのではないでしょうか。

血まみれの道を突き進み、新しい日本を創り上げていく男の嫁になるとは思ってもいなかったでしょう。

彼女をひとりの男の妻として考えた時、本当に幸せであったのだろうかと、ふと考えてしまいます。

 

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