何顒(かぎょう)とはどんな人?党錮の生き残りで袁術に嫉妬された人

2018年1月28日


 

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皆さんは、党錮(とうこ)の禁をご存知でしょうか?

189年の宦官皆殺し事件を遡る事23年前、清流派と呼ばれた官僚と

太学生が汚職宦官一掃を求めてデモを起こした事件です。

 

党錮は第一次と第二次があり、第二次では外戚と組んだ清流派官僚と

太学生が宦官を皆殺しにしようとして失敗し

危機意識を持った宦官が片っ端から官僚や太学生を検挙投獄、

殺害したり、屋敷に閉じ込めて出仕を禁じたりした事件です。

 

何顒(かぎょう)は、この党錮に参加して生き延びた運動家であり、

かつ、あの袁術(えんじゅつ)にとっても憎まれた人物なのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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学生時代から名士と交流する生意気な男

 

何顒伯求(かぎょう・はくきゅう)は、荊州(けいしゅう)

南陽郡襄郷県(なんようぐん・じょうごうけん)の出身です。

この南陽は、後漢の建国者である光武(こうぶ)帝が出た土地でした。

この点から考えると、何顒はそれなりの名家の出だと思われます。

 

彼は若くして洛陽に留学し、太学で学びますが、

なんとぺーぺーの学生の時代に、その時代の儒者のカリスマである

郭泰(かくたい)、賈彪(かひょう)と年齢を超えた交友を結び大注目されます。

 

しかし、当時の儒者の他の階級への差別や優越意識を考えると、

いかに何顒が優秀でも、平民出身なら門前払いだったと考えられるので

それなりの家の出身と考えていいでしょう。

 

ちなみに光武帝も、若い頃に南陽から出て、洛陽で遊学しているので

何顒の実家も、光武帝同様に地方豪族であったかと推測します。

 



口舌の徒ではない、親友の仇を討つ任侠な一面も

 

しかし、何顒は口先だけの青白いインテリではありません。

かなり、豪胆な精神力を持つ人物でもあったのです。

ある時、友人の虞偉高(ぐ・いこう)が父の仇を討てずに病に倒れた時、

話を聞いて義憤に駆られた何顒は、彼の代わりに仇を討ち、

虞偉高の父の墓前に、仇の首を備えたそうです。

 

ただ、この為に、今度は何顒が仇敵に追われる羽目になります。

その相手は大変な資産家で4頭立ての馬車を百乗持ち、

常に何顒の命をつけ狙うので、彼は路上で襲われないように、

よく肥えた馬力のある馬で馬車を引かせ、万が一に備えていました。

 

なんだか後先考えない奴にも思えますが・・・

とにかく、自分に直接関係ない事でも義の為にやってのける

かなり度胸のある人であるとは言えます。

 

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党錮に連座し殺されかけるが各地の豪族に匿われる

 

169年、清流派官僚の陳蕃(ちんばん)と李膺(りよう)が

外戚の竇武(とうぶ)と結び宦官勢力を皆殺しにしようとして失敗

二人と親しかった何顒も宦官に陥れられます。

 

身の危険を感じた何顒は汝南(じょなん)に逃げ込みますが、捕えられるどころか

これまでの武勇伝が轟いており、どこでも歓待されたそうです。

 

この豫洲汝南郡は、四世三公で知られる袁家の本貫の地、

つまりホームグラウンドでした。

その縁で、何顒は若い頃の袁紹(えんしょう)と知り合い深い交友を結びます。

そして、袁紹の要請で、単身で洛陽に赴き、太学の仲間や清流派の

官僚を救う事に大きな功績があったそうです。

 

袁術との交際を拒否し、心底恨まれる

 

その頃、袁紹と何顒の交流をモノ欲しそうに見ている影がありました。

いじわる爺さん、ではなく袁紹とは従兄弟とも兄弟とも言われる袁術です。

袁紹が持っているものは、何でも欲しがる袁術は何顒にも声をかけて

交友を結ぼうとします。

 

・・・・・しかし、袁術を小物と見た何顒は交際を拒否しました。

あざといっスね名士って、遊び友達とか造らないんですね。

 

袁術もお金と名声で、そこそこ名士を集めて人物を気取りましたが、

全く袁紹に見劣りし、さらに英雄扱いの何顒が来ないとなっては

術さんのプライドも面目も丸つぶれです。

 

「おのれ~!!何伯求めェっ!!袁家の次期当主たるわしを

無視するとは許さん、どうするか見ておれ!」

 

小者袁術、満座の前で何顒に恥をかかせようとするが・・

 

怒った袁術は、名士が集まる交流会に何顒がやってくると聞くと、

取り巻きを引き連れて会場に乗り込み、何顒を罵倒します。

 

袁術は、何顒が高徳の士とは嘘っぱちであり、

こいつは、3つの罪を犯していると言います。

 

「そもそも、王徳彌(おうとくや)は、儒者の中では先駆者で

徳が高いが、伯求はこれを疎んじている。

逆に許子遠(きょ・しえん)は俗物で品性卑しいのに伯求はこれと親しくしている。

また、先輩格の郭泰や賈彪が職を失い貧しく他に仕事もないのに、

伯求は肥えた馬に乗り、軽やかな毛皮を着て派手な成りで道を歩く

こんなあべこべな事をするヤツが、高徳の士であるわけがない!」

 

すると、何顒の代わりに陶丘洪(とうきゅうこう)という人が反論しました。

 

「それは、違います、王徳彌は、確かに立派な人ですが、

実行力がなく役には立ちません。

一方で許子遠は、俗物ですが、困難を避けず自分が泥をかぶる事を

厭わない実行力があります。

だからこそ、伯求は道を行うには、王徳彌を師としつつ、

実際に行動するときには、許攸と親しく付き合うのです。

また、伯求はかつて、友人の仇討ちをして深く恨まれ

その相手は富豪で、4頭立ての馬車を100両保有し、

伯求を狙っており、駿馬でないなら命を全うできません」

 

言い返されて袁術は二の句が継げず、ブリブリ怒ったままで

帰ってしまいました。

 

袁術 宗承のアドバイスで何顒をあっさり許す

 

恥の上塗りをした袁術は、何顒を殺そうと考えて、

宮殿の闕門で出くわした名士の宗承(そうしょう)に

 

「内緒じゃが、わしは奸物の何顒を殺すつもりだ」と打ち明けます。

すると、宗承は、

 

「何顒は俊英なので殺すと貴方の悪名になり、

甚だ名声を落とすでしょう。

ここは何顒の無礼を許し、厚遇する事です。

さすれば天下に、さすが袁家の御曹司は違う!

評判を得、大いにプラスになります」と答えます。

 

気が変わるのも早い現金な袁術は殺意を引っ込め、

こうして、何顒は難を逃れました。

 

党錮の禁が解けると司空府に招聘されるが、やがて董卓が・・

 

184年、黄巾の乱が起きると、喧嘩している所ではなくなった

外戚何進(かしん)と宦官勢力は和睦し党錮の禁は解除され、

各地で謹慎していた名士が中央に戻っていきます。

もちろん、何顒も招聘され司空府に招かれて、国政に関与して、

とんとん拍子に出世していきます。

 

やがて何進が政治を執ると、智謀の士として逢紀(ほうき)

荀攸(じゅんゆう)らと共に腹心の役割を担ったそうです。

 

しかし、189年、霊帝没後の混乱をついて、董卓(とうたく)が洛陽を制圧すると

何顒は脅迫されて長史とされますが、病と称して出仕しませんでした。

ですが、この頃でも、交際があった袁紹が董卓に討伐されないように

渤海太守にして懐柔するように進言して袁紹を庇っています。

 

それと同時に、荀爽(じゅんそう)王允(おういん)

鄭泰(ていたい)、荀攸等と協議して、董卓の排除を目指しますが、

別件で罪に問われ荀攸と共に投獄され憂憤の中で死去しました。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

三国志魏志、荀攸伝によると、何顒は董卓暗殺の計画が露見して、

処刑される恐怖から自殺したとされています。

しかし、彼の豪胆な性格からして、恐怖から自殺は考えにくいですし、

あの董卓が、自分を殺そうとした人間を牢獄につなぐでしょうか?

その場で斬殺するのが董卓のスタイルだと思います。

 

それに、計画が露見すれば、仲間の王允もただでは済まないでしょうに

王允はスルーされているのも不思議です。

これを考えると、何顒の投獄の理由は、袁紹が反董卓連合軍を

結成し盟主になった事で、かつて何顒が袁紹を懐柔するように

進言した事の責任を取らされたのではないでしょうか?

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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