NHK大河ドラマ西郷どん、第5話では島津斉彬(しまづ・なりあきら)の藩主就任を記念して相撲大会が開かれる事になりました。
斉彬が藩主になったものの、お由羅騒動に関与して島流しにされた大久保正助(おおくぼ・しょうすけ:後の利通)の父が許されない事に怒った西郷どんが相撲大会に飛び入り参加し、斉彬に直訴するという今回のあらすじですが、この相撲大会に、2008年にNHK大河の主人公になった篤姫(あつひめ)が斉彬の養女として登場します。今回の大河の篤姫は、西郷どんとは、どういう関係なのでしょうか?
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大河ドラマ篤姫のあらすじって?
篤姫は、2008年のNHK大河ドラマとして、放送されました。従来言われた戦国モノに比較してストーリーが複雑で人気がないと言われた幕末モノのジンクスを破り、篤姫は、薩摩藩から徳川将軍家に嫁いだ一人の薩摩女性、天璋院(てんしょういん)の目線から、夫である徳川家定(とくがわいえさだ)との関係等、ホームドラマの要素を強め、それまで、西郷や大久保の陰に隠れていた薩摩藩家老、小松帯刀(こまつたてわき)を浮かびあがらせ、新しい視点から幕末史を解説し、広く女性層の支持を集めました。
その結果、篤姫は平均視聴率、24.5%と過去10年の大河ドラマでは最高の視聴率を記録、キャストでは主役の篤姫を演じた宮崎あおいさんや、小松帯刀役の瑛太さんなどの好演もあり近年の幕末モノとしては、もっとも当たった作品です。
田舎者ではない ちゃんとした家柄のお嬢様
NHK大河ドラマの影響があるのか、篤姫というと、家柄が低くて、将軍家御台所(正室)になるのに苦労した女性という印象が一般化しています。しかし、それは将軍家に嫁ぐとなるという意味で、決して低い家柄ではありません。篤姫は、初名を一(かつ)と言い島津家の一門、今和泉島津氏の当主、島津忠剛(ただたけ)の娘として1836年に生まれました。
篤姫には、晩年の写真が残されていますが、正直余り美人とはいえません。でも、表情に薩摩おごじょの強さが感じられ度量が広く性格の明るさを感じさせてくれます。
彼女の父、島津忠剛は、薩摩藩主、島津斉興(なりおき)の兄弟で島津斉彬の叔父にあたります。今和泉家は藩主の血筋が入る分家なので、薩摩ではエリートの家柄なのです。ただ、質実剛健で通った薩摩藩では、一門であっても貴族化する事なく質朴な家風だったので、篤姫も深層の令嬢というより武家の女という印象が強い女性だったようです。
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どうして篤姫は将軍家に嫁いだのか?
では、どうして、薩摩で生まれた篤姫が遠い江戸に、しかも将軍の正室として嫁いでいく事になったのでしょうか?
第一の理由としては、当時の将軍、徳川家定に子供が無かったという事です。徳川将軍の第一の仕事は、早急に後継ぎを儲けて、世襲を安定させる事でしたが、家定は生まれつき病弱な人物であり、子供もなく、また、京都の五摂家から迎えた正室は2人とも死去していました。
病弱でいつ死ぬか分からない将軍と、まだ決まらない後継者、世の中はペリーの黒船が来航して騒然としており、世間は、一刻も早く将軍に後継者が生まれる事を切望していたのです。
また、当時の公家の女性は幼い頃から、屋敷の奥で育てられ、運動なども許されず、和歌などを詠むだけの生活を送り、ちょっとした事で卒倒してしまうような虚弱体質の女性ばかりでした。すでに正室2人に死なれているのですから、「もう公家の正室は・・」という気分も幕府の首脳達の中にはあったでしょう。なので、篤姫のように武士の女として、逞しく健康に育てられた女性なら健康な世継ぎが生まれるという考えもあったようです。
どうして、篤姫を正室にしたの?
しかし、ここで疑問が湧きます、ただ、子供が欲しいなら篤姫を正室にしなくても側室扱いでもいいからです。事実、篤姫の輿入れでは、血筋を問題にする徳川斉昭(とくがわなりあき)などが、「陪臣(ばいしん:家来の家来)の娘などを将軍の正室にするのは断固反対」と騒いでいて、それで篤姫の輿入れは、とても難航していました。これが、側室なら、斉昭も反対しないのに、どうして正室にこだわるのでしょうか?
これには家定の側室であった、お志賀(しが)の方の嫉妬深さがあったようです。彼女は病弱な家定を献身的に看護する情けの深い女性でしたが、同時に独占欲が強く、別の女性の元に家定が通うのも嫌がりました。この状況で、篤姫を側室にすると、お志賀の方から、どんな妨害を受けるか分かったものではなかったのです。
前例を踏まえて薩摩に縁談が・・
もう一つ、篤姫が将軍家に嫁いだのには大きな理由がありました。それは、篤姫よりも前に、8代薩摩藩主、島津重豪(しげひで)の娘茂姫が11代将軍である徳川家斉(いえなり)に嫁いでいたという前例があったからです。徳川幕府は、260年という長い統治の間に官僚化が進んでいき、事なかれ主義と前例踏襲主義が習い性になっていました。
そうでなくても、全国に300はある大名家から将軍の正室を迎えるとなれば、あちこちから横槍が入るのは確実で、どの大名から正室を迎えても、必ず揉めるに違いありません。そうであれば、前例があるから!と連呼しながら島津家から、篤姫を迎えるのが一番トラブルが少なかったのです。今も昔も、こういう前例というのは、幅を利かすものなのですね。
しかし、水を向けられた薩摩藩では、藩主になった斉彬に家定に見合う年齢の姫がいませんでした。そこで、無理ぐりに今和泉島津氏の島津忠剛の娘で17歳の篤姫を実の娘という事にして偽り江戸の薩摩藩邸に送り出したのです。さらに身分の事が問題になると、島津家とは鎌倉時代からの付き合いの京都の五摂家、近衛忠煕(このえだだひろ)の養女という事にして、1856年11月にようやく、徳川家定の御台所として輿入れできました。
また、篤姫輿入れの調度品を選ぶ仕事は、若い頃の西郷どんが、斉彬の命令で行っており、大きな体に似合わず、鼈甲(べっこう)等の鑑定は大得意であったようです。
NHK大河ドラマ西郷どんでは、この篤姫の嫁入り道具を西郷どんが、揃えるという史実から、実は篤姫が西郷どんの初恋の人であり、さらに実は両想いだったというストーリーになるようです。
夫、家定との夫婦生活は?
篤姫と家定の夫婦生活は、2年に満たない期間でした。それに、徳川将軍というのは、常に正室と一緒に過ごしているわけでもなくもしかすると、顔を合わせた事も数える程しかなかったかも知れません。しかし、一方では、元々、狆(ちん)を沢山飼っていた犬好きの篤姫は家定が犬嫌いであると聞き、猫(名:サト姫)を飼いだしたと言います。
犬がダメ=猫はOKとは限らないので、家定は猫は好きか、或いは大丈夫だった事を周辺から、或いは当人から聞き出したかも・・それなら、猫を介して夫婦の会話はあったのかも知れませんね。
また、徳川家定は、大変に暗愚で日常生活もまともに送れないと悪しざまに書かれていますが、それは、家定と仲が悪かった人々の証言が多く旧幕臣の朝比奈昌広(あさひな・まさひろ)は、江戸三百諸藩の大名の中には、家定より暗愚な人もいた筈であると証言しています。
確かに家定は極端に内向的な性格であるのに加え病弱なので将軍としては不適格ですが、一方でカステラや饅頭作りが趣味であり、時には家臣に菓子や吹かし芋を振る舞うなど人情味もあり、将軍でさえなければ、普通の人生を送れた人であったのかも知れません。1858年に家定が死去し、同年に養父だった斉彬が急死すると、篤姫は髪を落として尼になり天璋院と名乗りました。
お酒に強く気さくな人柄だった
篤姫は、薩摩人らしくお酒に強い人で度々晩酌をしていたようです。それも、一人で飲むのではなく、お中臈にも手ずから酌をして、大勢で飲むのが好きであったようです。当時は、身分が上の人が、下の人に酌をするなど、褒美の部類であり、非常に型破りでしたが、篤姫は気にする事もなかったようで、大らかで明るい性格が窺がえる話になっています。
皇族である嫁 和宮との嫁姑バトル勃発
しかし、1862年、江戸城に時の孝明天皇の皇妹、和宮(かずのみや)が14代将軍家茂(いえもち)の正室としてやってくると安定していた大奥に波乱が起きました。和宮は当時16歳でしたが、万事において生活を御所様式にすると宣言し武家である徳川のしきたりを拒否したのです。さらに、姑に当たる天璋院篤姫に対しても、配下に対するように書面で、天璋院と呼び捨てにしたりしたと記録されています。
それは、篤姫には許しがたい事でした。自身も薩摩から上京して全てを捨てて、徳川の女として生きている篤姫は事情は兎も角、嫁として江戸まで来ておいて、「私は皇女だから」と未練たらしく京都を懐かしみ、取り澄ましている和宮に憤りを感じたのです。
篤姫は姑として、和宮に厳しく当たり、ある時は、篤姫が上座に座り、口も利かず、和宮の席には、敷物一つなかったそうです。実際に、和宮の側近が兄である孝明天皇に送った書簡には、天璋院が和宮に数々の無礼を働いたとか、自分達の部屋は薄暗く狭いとか御所風の暮らしがほとんど守れていないと不満が連ねられ、大奥の女と和宮が折り合えず、和宮は涙を流していると書かれています。
当初は折り合いが悪かった和宮と篤姫ですが、後述する勝海舟(かつ・かいしゅう)の取り持ちや徳川家が危機に瀕した事で、いがみ合う所ではなくなり、協力していき、大変な仲良しになっていきました。
勝海舟と怪しい関係だった?
まだ、篤姫と和宮の仲が悪かった頃の事です。対立の結果、両者は大奥で贅沢合戦を開始したそうで、ただでさえ、出費が多い幕府の財政は火の車になりました。海舟座談によると、この時に和宮と篤姫の喧嘩の仲裁に入ったのが勝海舟なのだそうで、海舟は、篤姫に説教臭い事は何も言わず、ただ、庶民の生活を見せましょうと言って、大奥から連れ出し、江戸市中をどこでも見てまわらせました。
海舟は、篤姫を自分の姉と偽り、市中を隅々まで見せます。隠す事なく遊郭まで案内したと書かれています。篤姫は元来、聡明な人ですから、江戸市民が貧しい中でも、工夫を凝らし、一生懸命に生きている様子を体験として掴んでいき、大奥でも贅沢を止めて倹約に勤めるようになり、対立していた和宮にも節約術を教えあうなどし、関係は改善して行ったという話です。こうして、大奥の贅沢合戦は止んだという事ですが、海舟は名うてのほら吹きなので、脚色もあるかも知れません。
徳川家を守り通した篤姫
1868年、戊辰戦争が起きて、薩長軍が江戸へ押し寄せる事態になると、篤姫は元は薩摩の人間ながら、徳川の人間として生きる事を貫き、和宮と共に、手分けして、島津家や朝廷に対して徳川慶喜(よしのぶ)の助命を求める手紙を出し続ける事になります。
勝海舟の回想によると、篤姫は慶喜が大嫌いだったそうです。それというのも、慶喜は篤姫達を相手にせず、女に何が分かると馬鹿にしいつもいい加減な事を言って騙そうとしていたからでした。しかし、ここに至っては徳川家の命運が懸かっている事態でしたから篤姫も和宮も覚悟を決め、徳川が滅ぼされる時には、自分達も江戸城と運命を共にしようと頑張りました。それが何とか実を結び、慶喜の助命が聞き入れられます。こうして、薩摩の女丈夫は、嫁ぎ先の徳川家を守り切ったのです。
篤姫を演じる北川景子はどんな人?
西郷どんで篤姫を演じるのは、北川景子さんです。芸能界に美女は大勢いるとはいえ、顔形がここまで整った美女は、そんなに多くはないのではないでしょうか?
何しろ、オリコンが調査した女性のなりたい顔ランキングでは2010年と、2013、2014、2015と4回も首位を獲得しているクールビューティーです。彼女は役柄によって性格が全然違うカメレオン俳優を目指しているそうで、西郷どんでも、難解で知られる、鹿児島弁をマスターしようと、自ら方言指導を願い出て稽古しています。その甲斐もあって、鹿児島弁のアドリブまで繰り出せる程になり方言指導のスタッフを沸かせた程だとか・・北川景子さんの篤姫の出来映えが楽しみですね。
篤姫の子孫はいるの?
篤姫は、19歳で家定に嫁ぎ、2年足らずで死別しました。将軍の正室という立場上、再婚は許されず落飾して尼になったので、ついに子供に恵まれる事はありませんでした。ですが、彼女には、14代将軍の家茂が後継者に指名した田安家の徳川慶頼の3男徳川亀之助(後の家達:いえさと)を養育する仕事が残されていました。
亀之助は、1863年の生まれで、明治維新の時には僅か5歳、すでに徳川幕府はありませんが、70万石を与えられた徳川宗家当主として一門を引っ張っていく責務がありました。篤姫は、幼少の頃から亀之助を養育して、実子のような愛情を持ち華美な贅沢に流れず、質実剛健な武士の子として教育しました。1877年のイギリス留学も篤姫が勧めた事であったようです。
成長して、徳川家達となってからは、公爵徳川家の当主であり、貴族院議長や、ワシントン軍縮会議の全権、日本赤十字社社長を歴任し大正時代には、断ったとはいえ、総理大臣として組閣の大命を受けています。その頃には、すでに篤姫は亡くなっていましたが、賊軍の汚名を受けた徳川家の当主が総理大臣を拝命したと聞けば喜んだでしょうね。
フジテレビ大奥で菅野美穂が演じた篤姫は同一人物?
同じく篤姫を扱った作品としては、菅野美穂さんが2003年に天璋院を演じたフジテレビのドラマ大奥があります。こちらの方がテレビドラマとしては年代的には古いのですが、フジテレビの大奥は男女逆転というSF時代劇であり、時代考証などにおいては、NHK大河の篤姫が、遥かに正確であるという事になります。もっとも、どちらが面白いかについては、視聴者の好み次第という事になりますね。
お風呂場で足を滑らし呆気ない最後
明治維新後の篤姫は、東京千駄ヶ谷の徳川宗家で暮らし続けました。1853年に鹿児島を出てから、ついに死ぬまで故郷には帰らなかったそうです。世の中は、薩摩・長州の藩閥が幅を効かしていましたが、篤姫は、どこまでも徳川家の人間として振る舞い、資金援助などを拒否しました。
それでも、大奥にいて規則に縛り付けられていた時代に比べると篤姫は自由であり、和宮や勝海舟の家を訪ねて旧交を温めていたそうです。一方で篤姫は、元々大奥にいて、今では失業した昔の侍女の縁組や、再就職に奔走し、その為に自分の生活費を切り詰めていました。大奥の主として、最後まで関係者の生活を気にかけていたのです。
これという病気をした記録もない壮健な篤姫ですが、1883年、風呂場で滑って転び、頭部を強く打ち、脳卒中になり亡くなります。まだ47歳という若さでの突然の死去でした。死んだ時の所持金は、3円(現在の6万円)で、彼女が生活を切り詰め大奥に勤めた人々の為に骨を折った様子が分かります。
幕末ライターkawausoの解説
篤姫の葬儀では、1万人という人が参列して、その死を悼んだそうです。多くは大奥の関係者やその家族だったと考えられます。17歳で鹿児島から江戸に来て、30年、一人の薩摩おごじょは、徳川家の人間として、大きな人徳の華を咲かせて、この世を去ったのでした。
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