西暦230年冬、蜀(しょく)の魏延(ぎえん)はたった一万の軍勢で遠征を開始しました。
行き先は西平郡(せいへいぐん)臨羌(りんきょう)。
冬にはマイナス20℃にもなる極寒の地です。
命懸けの行軍。魏延はなんのために、真冬の臨羌に行ったのでしょうか。
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この記事の目次
臨羌はどんな土地? どのくらい寒いの?
臨羌は現在の青海省(せいかいしょう)西寧市(せいねいし)です。
山を越えると北にはゴビ砂漠、西はツァイダム盆地。
漢族、ウイグル族、チベット族、モンゴル族などの諸民族が住んでいる、
異国情緒たっぷりの土地です。ダライ・ラマ14世は西寧の生まれです。
2018年1月8日の最低気温はマイナス20℃。
ビール瓶が破裂し、濡らしたタオルを振り回せば凍るレベルです。
この日の最高気温はマイナス5℃でした。
最高気温マイナス5℃は命懸けなのか?
最高気温がマイナス5℃くらいなら、昼間のうちに行軍を打ち切って
夜はちゃんと暖かくしてたら死なないんじゃない。と、思いがちですが、
体感温度は風速1mで約1℃下がると言われており、西寧ではまれに
風速10m程度の風が吹きます。風の他に、衣類の湿気というのも危険でして、
行軍中に頑張って歩いて汗をかき、小休止の時にそのままうかうか休憩していると、
たちまち体温を奪われます。寒くなると体の中心部を守るために末端への血流が
セーブされますから、指先などの末端は冷え切ってしまいます。その状態から
突然運動すると、末端の冷たい血液が急激に心臓に回って心停止することがあります。
また、末端が凍傷になれば、壊死した組織から毒素が回り死に到ることもあります。
冬に臨羌まで行軍することは、まさしく命懸けです。
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臨羌では何もしていない?
臨羌は魏(ぎ)や蜀の中心地からは遠く離れているし、異民族ばかりだっただろうに、
どうしてわざわざ命懸けでそんなところまで行ったのでしょうか。
中原(ちゅうげん)から見ればどん詰まりの土地。周りは山、砂漠、湖。戦略的にさほど
重要そうな場所には見えません。魏延が臨羌まで行く間に誰かと交戦した
という記録もありません。無人の境を行くように臨羌まで行き、くるりと反転して、
もと来た道を帰っていったようです。
帰路の途中の陽谿(ようけい)という場所で魏の郭淮(かくわい)の軍と
ばったり遭遇、そこで一大会戦となり、おりよく駆けつけた諸葛亮(しょかつりょう)の
軍と協調して郭淮を挟み撃ちにしてこてんぱんにやっつけました。
この功績で魏延は前軍師(ぜんぐんし)征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)となり、
仮節(かせつ)を与えられ、南鄭侯(なんていこう)に奉じられました。
郭淮(かくわい)を倒したのは棚ぼた?
あてもなくぶらぶらと遠くまで行ったらたまたま敵の大物と遭遇してやっつけて
棚ぼただったよ、というふうに見えますけど、そんなわけないですよね。
命懸けでわざわざあてのないお散歩なんてしませんて。
一見無目的と見えるような臨羌へのロングドライブには、きちんと狙いがあったはず。
郭淮との遭遇は計算尽くで、会戦の場所に折よく諸葛亮の軍が現われたのも、
郭淮とぶつかりそうなポイントで落ち合えるよう双方で連絡を取り合っていたのでしょう。
臨羌まで行った狙いとは?
臨羌がある涼州(りょうしゅう)という土地は、魏の領土でしたが魏への忠誠心などなく、
しばしば反乱を起こしてきました。
魏延が行った頃には涼州は魏に服従していましたが、涼州のローカルの人たちは
蜀軍を見かけても面倒くせえから放っとこうという程度の考えしかないため、
魏延が無人の境を行くように涼州を歩き回れたのは当然です。
魏延はわざと、これ見よがしにウロウロして郭淮を挑発したんじゃないでしょうかね。
領土の端っこまで行ったのは郭淮への嫌がらせと、涼州人へのデモンストレーション。
蜀軍が好き勝手に歩き回るのを放置しておけば、涼州における魏の権威はズタボロ
になりますから、郭淮はとても見過ごしてはいられません。
で、躍起になって魏延を追っかけ回して、やっと出会えたポイントが、
会戦の場所、陽谿(ようけい)。
暖かい季節ではだめなのか?
極寒の時期に行くことによるメリットは二つです。
一つ目は、俺らめっちゃ神ってる、って涼州の人々に見せつけられること。
通常、寒い土地の人は寒い時期にわざわざ出歩きません。
平気で行軍してる人たちがいたら、「げぇっ 神兵!」とびびることでしょう。
二つ目は、機動力において魏軍に対する優位を確保できること。
魏軍は通常の防衛体制を敷いているところに突然敵が現われるわけですから、
涼州の通常の冬装備のまま慌てて出てくるはずです。通常の冬装備というのは
「寒い日には休みましょうや、将軍」という程度の用兵しか想定してないので、
強風や早朝・夜間の行軍に耐えるものではないはずです。一方、魏延のほうは
寒中行軍やる気満々で、一万人こっきりの最精鋭部隊に蜀の先進の技術と
莫大な予算をつぎ込んで万全の防寒装備を調えてサクサク行軍できますから、
敵に追いつかれずに行きたい場所を思う存分歩き回れます。
魏延が領土の端っこまで行くのを郭淮が捕捉できず、帰路でようやく会えたというのは、
両者の機動力の差を物語っています。
機動力の差を利用して、魏延は郭淮を自軍の最も有利な地点までおびき寄せたのだと
思いますよ。
三国志ライター よかミカンの独り言
魏延が命懸けで極寒地に踏み込んだ作戦の意義とは、示威と陽動であったと考えます。
俺らは真冬の涼州を自由に動き回れるぐらい最強にして最高、
いっぽう魏軍はおたおたしているヘナチョコ連中、
涼州のみなさん、魏に味方したって損するばっかりですぜ、
ってみせびらかしておいて、慌てて追いかけてきた郭淮を
陽谿(ようけい)におびき寄せてフルボッコ。
230年冬の魏延の作戦は、こういうものでした。
※魏延が冬に臨羌まで行って帰路で郭淮に遭遇したという説は、
学研歴史群像シリーズ⑱【三国志】下巻132ページに基づいています。
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