これは意外!董卓が殺されたのは并州人 vs 涼州人の対立の結果?

2017年12月25日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

三国志の大事件の一つに数えられる呂布(りょふ)による董卓(とうたく)暗殺、

一般には、董卓が呂布に手戟を投げつけるなど、横暴な振る舞いが増えた、

呂布が董卓の侍女に手を出しその発覚を恐れた、呂布の裏切り癖などが殺害の原因ですが、

実は、董卓の死は呂布個人の確執ではなく、并州人VS涼州人の対立の結果だったかも

知れないという説があるのです。

 

関連記事:呂布が董卓を裏切らなかったら後漢王朝はどうなった!?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



董卓の配下には涼州人と并州人がいた

 

董卓の力の源泉である騎馬兵ですが、そこには大きく二つの流れがありました。

一つは董卓の故郷である涼(りょう)州人を主体とする騎馬兵、そしてもう一つは、

涼州の隣の并(へい)州出身者による騎馬兵でした。

 

この中で涼州を代表するのが、李傕(りかく)樊稠(はんちょう)胡軫(こしん)

であり、并州を代表したのが、呂布や張遼(ちょうりょう)でした。

董卓は、当初、この二つの派閥を上手く使い政権を安定させていたのです。

 

董卓の運命を暗転させた長安遷都

 

しかし、董卓が反董卓連合軍の勢いを恐れて、洛陽を焼き払い、

長安に遷都した辺りから、涼州閥と并州閥の立場は変化していきます。

長安は董卓の本拠地の涼州に近いので、人材は涼州出身者に偏るようになり

并州出身者は、本拠地から離れた事で不利になって勢力が減少、

それに伴い優遇されなくなっていくのです。

 

董卓は、多数派を占め、かつ、同郷人である涼州閥を露骨に優先したので、

次第に并州閥に不満が高まっていきました。

その筆頭には、董卓のボディーガード、呂布がいたという事になるわけです。

 

古代中国・超科学の世界に挑戦する HMR

 

王允の呂布勧誘の一言は「同じ并州出身」だった

 

そんな呂布に反董卓の司徒、王允(おういん)が接近したのはよく知られています。

無愛想で警戒心の強い呂布に近づく為に王允が利用したのは、

同じ并州出身者であるという同胞意識でした。

 

これは、并州出身の呂布の警戒心を解かせるだけでなく、

優遇されている涼州出身者の悪口を言いやすいメリットがありました。

涼州人が涼州人の悪口を言いだせば、「なんだこいつ?」と思われますが

同じ并州人の王允が涼州人の悪口を言う分は呂布には違和感がないのです。

 

王允が呂布を唆す過程には、あまりに優遇されている涼州閥から、

并州閥に権力を取り戻そうではないか?という殺し文句も入っていたと

Kawausoは推測しています。

 

その根拠として、董卓を殺害した後、王允が言ったと言われる、

涼州人は皆殺しにするという風聞があります。

デマか本当か、涼州人への脅しか分かりませんが、

その風聞には、涼州人に比較して不遇だった并州人の恨みがあったと

考えられるのです。

 

関連記事:何で賈詡は董卓残党を奮起させて王允の政府を破壊したの?

関連記事:王允(おういん)ってどんな人?中華を救うべく董卓暗殺に成功するも…残念な結末を迎える

 

長安を出た呂布の配下と長安に入った李傕の配下

 

董卓を倒す事は出来たものの、王允の政治は董卓に劣らぬ粛清の嵐で、

すぐに人心を失います。

やがて、董卓の弔い合戦で攻めのぼってきた李傕と郭汜率いる涼州閥により

呂布は手勢数百騎で長安を追われてしまうのです。

 

彼の配下には、出身地不詳が多いのですが、例えば張遼(ちょうりょう)

秦宜禄(しんぎろく)韓暹(かんせい)は出身地が并州となっています。

一方で、呂布の配下で涼州出身者は、楊奉(ようほう)だけです。

こうして、考えると呂布の軍団は当初から、并州人で組織されており、

長安から呂布について逃げたのも大半は并州人でしょう。

 

そして反対に、李傕の部下や仲間は、樊稠、胡軫張済(ちょうさい)

楊定(ようてい)、さらに軍師、賈詡(かく)も涼州人でした。

ここに、董卓暗殺の政変に、涼州人と并州人の勢力争いがあったと

考えるのは穿ち過ぎではないと思います。

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso編集長

kawauso編集長

kawauso編集長です。 はじ三の中の人です。 様々なトピックを立てますが 盛り上がらない時には ごめんね。 大体、咬まないので 気軽にからんでもらえると 嬉しいです。

-三国志の雑学, 董卓