郭淮(かくわい)ってどんな人?蜀軍との戦いに明け暮れた魏の重鎮の司令官


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郭淮

 

某三国志ゲームの郭淮(かくわい)は常に咳をしており、体が弱いイメージが描かれていました。確かに病で倒れたことはありましたが、そんなに病弱な武将ではありません。むしろ体が強くなければ蜀軍と戦い続け、魏の国境を守り抜くのは無理であったと思います。諸葛孔明姜維(きょうい)の北伐軍と激闘を繰り広げ、魏の国境を守りぬいた郭淮をご紹介していきます。

 

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蜀軍との初めての戦い・定軍山の戦い

黄忠VS夏侯淵

 

郷挙里選(村などで村人達が国に推薦する人材採用法)で選ばれ、郭淮は魏に仕えることになります。曹操軍が漢中を占領すると、夏侯淵(かこうえん)と共に漢中へ赴きます。劉備軍侵攻に備えて防備を整えていた郭淮ですが、病に倒れ、戦いに参加できませんでした。定軍山の戦いでは、魏軍総司令官であった夏侯淵が討ち死にします。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

軍が大混乱する中、郭淮は病を押して、混乱する兵をすぐさま収拾し、総大将代行を張郃に任せ、劉備軍からの猛攻をしのぎます。

 

手柄を立てる張コウ(張郃)

 

曹操が大軍を率いて漢中に着くと、郭淮の機略に富んだ行動に感心し、彼を昇進させ、張郃(ちょうこう)の副官に任命します。その後、漢中で劉備軍と対陣し、双方決定的な決め手に欠けている中、孫権軍が合肥城に侵攻したとの報を受けたため、曹操軍全軍は漢中を捨てて退却を決意します。


統治能力にも優れた才能を見せる

統治能力にも優れた才能を見せる郭淮

 

曹丕(そうひ)から爵位をもらい、郭淮は関内侯となり、西の異民族の対応を任されました。張郃などの諸将と共に周辺に住む賊を討ち滅ぼし、関中に平穏をもたらしました。郭淮は、異民族からも慕われており、降伏してくる者があとを絶ちませんでした。郭淮は降伏してくる者たちの家族構成などを事前に調査し、降伏してくる者たちの内情を知ってから会っておりました。相手の内情を調べ尽くし、降伏してくるものに恐怖感を与えない、人心掌握術は見事というしかありません。

 

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【魏のマイナー武将列伝】
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諸葛孔明との戦い

孔明 出師

 

蜀の丞相・諸葛孔明が魏の領土に侵攻したため、郭淮も魏の領土を守るべくすぐさま出陣します。蜀軍の先鋒である馬謖を街亭に布陣させ、孔明は祁山に駐屯します。張郃と郭淮は街亭に布陣している馬謖を包囲し、簡単に撃破します。街亭に布陣していた馬謖が撃破されたため、孔明はすぐさま退却を開始します。

 

炎上する城a(モブ)

 

その後郭淮は、列柳城に籠城していた蜀軍を追い払います。そして反乱を起こした異民族を倒し、帰還します。この功績が認められて、郭淮は昇進します。街亭の戦いの後も孔明との戦いは続きます。時に敗れて領土を奪われる事もありますが、関中の中心部には決して侵攻させず、固く守り通します。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

五丈原の戦いでは、司馬懿と共に出陣します。皇帝曹叡(そうえい)の命令もあって、砦を築き防御に専念した戦いです。孔明は魏軍をおびき寄せるため陽動作戦を行いますが、郭淮は孔明の策略を見抜いて、蜀軍を打ち払います。その後、大規模な戦いが行われないまま、100日以上が過ぎました。そんなある日、蜀軍が突如退却を始めます。司馬懿は諜報者から孔明が死亡した事を知り、すぐに追撃を行いますが、猛烈な反撃を受けて、蜀軍への攻撃を断念します。こうして郭淮と孔明の戦いは幕を閉じるのです。

 

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孔明の跡を継いだ姜維との戦い

姜維

 

孔明が死に、郭淮と蜀軍の戦いは一度幕を閉じます。しかし、孔明の跡を継いだ姜維が魏の領土に侵攻します。郭淮は出撃し、見事に蜀軍を追い払い、反乱を起こした異民族を徹底的に攻撃し、3000あまりの部族を関中に移住させることで、異民族の力を減らし、叛かないようにします。郭淮の活躍により、姜維の北伐は失敗に終わり続けますが、何度も戦いを挑みます。そのつど、郭淮は出陣して姜維を打ち払います。

 

行軍する兵士達a(モブ)

 

長年、蜀軍に勝ち続けた功績が認められて、対蜀戦線の総司令官を命じられます。蜀軍戦線の総司令官の就任後、すぐに姜維が攻め込んできます。この時の戦いは、陳泰(ちんたい)と協力し、蜀軍を徹底的に叩きます。この戦いでの功績が認められて、領地が加増され、将軍の位では最高位の車騎将軍に任命されます。

 

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実は愛妻家であった郭淮

実は愛妻家であった郭淮

 

蜀軍との戦いを続けていた郭淮ですが、実は愛妻家として知られる人物でもあります。王陵は反乱を起こしますが、司馬懿に鎮圧され、自害を命じられます。この乱は王陵の自害だけでは終わらず、王陵に関係のある者が罪に問われ、次々と処罰されていきます。郭淮の奥さんは、王陵の妹であったため、司馬懿から「奥さんを中央に送るように」と要請が来ます。この要請が郭淮の元に来ると、異民族の部族長や配下の諸将などから、奥さんの命乞いにやってきます。しかし郭淮は彼ら願いを聞きませんでした。ついに奥さんを中央に送る日がやってきました。

 

郭淮の息子たちは土下座で訴える

 

この日、郭淮の息子たちは土下座をし、地面に何度も頭を叩きつけ、母を中央に送らないでくれと命乞いをします。息子たちは何度も地面に頭を打ち付けたため、額に血が流れる程でした。この光景を見た郭淮は、悩みに悩んだ結果、奥さんを奪い返します。その後すぐに、司馬懿に「私の子供たちは妻が罪を受け中央に送られることを非常に悲しんでおります。そのため子供たちは額から血を流すほど妻の命を助けてくれと嘆願いたしました。ここでもし、母を中央に送り、殺されたと知れば、子供たちは自害してしまうでしょう。子供たちが自害すれば私もこの世にいることはできません。そのため、私は妻を奪い返しました。魏国の法律上、今回の事が、許されないのであれば、私は罪を受ける次第であります。」と書状を送ります。

 

この書状を見た司馬懿は郭淮の行動に罪を問わず、そのまま総司令官として重用するのでした。郭淮はこの話からも分かるように非常に奥さんを愛しておりました。一歩間違えば郭淮も子供達も奥さんも全員が死ぬ可能性があったにも関わらず、奥さんを奪え返した郭淮は真の愛妻家ですね。この事件から4年後、郭淮は静かにこの世を去ります。蜀軍との戦いに明け暮れ、魏の領土を守り続けた郭淮には、長年の功績が称えられて、大将軍の位が送られました。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

郭淮は30年以上蜀軍と戦い続け、魏の領土を守り抜きました。もし郭淮ではなく違う人材がこの地を守備していたら、蜀が北伐に成功した可能性はあるかもしれません。そう思うと郭淮の存在は魏にとって非常に重要な人材であったと私は思います。今回の三国志話会はこれで終わりです。

 

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