【正史三国志から見る】謀反人にされてしまった魏延は本当に反逆するつもりだったの?

2017年4月16日


 

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魏延(ぎえん)

劉備が南荊州(けいしゅう)を根拠地としていた時に

加わった武将で益州(えきしゅう)攻略戦で活躍し、

漢中太守として任命されることになります。

劉備死後、諸葛孔明の北伐戦の要となる武将となり、

人材が払拭していた蜀の軍人の中で、

蜀軍の軍事を担うトップクラスの武将として扱われることになります。

 

 

孔明が北伐戦で亡くなるとある事件が勃発します。

それは魏延と以前から対立していた楊儀(ようぎ)が蜀軍を率いて撤退を開始したことです。

魏延は楊儀が撤退作業を行っていることに激怒。

そのため楊儀率いる蜀軍と対立することになります。

その後彼は自分の味方であった馬岱(ばたい)に討ち取られたことで、

蜀軍内部の対立は収束を迎えることになります。

魏延は蜀軍と対立したせいで後世、反逆者の汚名を切ることになってしまうのですが、

本当に反逆する意思が彼にあったのでしょうか。

 

前回記事:【三国志の素朴な疑問】蜀が北伐を止められなかった理由とは?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孔明の遺言

 

五丈原(ごじょうげん)で魏軍と対峙していた蜀軍。

蜀軍の総大将である諸葛孔明は病に蝕まれておりました。

自らの命がもうすぐで尽きると察した孔明は、

蜀軍を無事に漢中へ撤退させるための作戦計画を草案。

彼はこの計画を楊儀、費禕(ひい)、姜維(きょうい)を呼んで

「君達は蜀軍を率いて漢中へ撤退せよ。

魏延には追撃してくるであろう魏軍を阻止させるために殿(しんがり)を行わせろ。

しかしもし魏延が私の遺命に従わないようであったら彼をおいて撤退せよ」と伝えます。

孔明はこの遺命を伝えてから数日後に亡くなる事になります。

 



蜀軍分裂

 

費禕は魏延が孔明死後おとなしく撤退に賛同するかどうかを探ってくるように

楊儀から命令を受けます。

彼は魏延の元に言って孔明死後どうすればいいのかを尋ねます。

すると魏延は費禕へ「諸葛丞相が亡くなっても蜀軍には俺がいる。

戦はこのまま行って魏軍を討伐するべきであると思う」と述べます。

費禕はこの意見を聞いて楊儀の元に帰り魏延の意見をありのまま伝えます。

魏延は費禕が帰った後、なぜあのような事を彼が聞いてきたのか不信に思い、

蜀軍の諸将を調べさせると全軍が撤退準備に忙しくしている事を知ります。

彼は蜀軍が楊儀を総大将にして撤退準備を自らに黙ってしている事に激怒。

自分の指揮下にある軍勢を急いで漢中へ向けて進発させて、

楊儀率いる蜀軍が通過するであろう桟橋を焼いて、

楊儀の率いる蜀軍が容易に撤退できない状況を作り出します。

 

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二通の書状が届く

 

魏延は桟橋を焼いて楊儀率いる蜀軍の迎撃を行うために

南谷口(なんこくこう)と呼ばれる地点に自軍を展開させて楊儀率いる蜀軍を待ち受けます。

彼は迎撃の陣営を築き上げた後劉禅(りゅうぜん)に向けて楊儀達が謀反を起こしたと書状を送ります。

楊儀率いる蜀軍は魏延が桟橋を焼いてしまったため、

桟橋修復のために昼夜関係なく修復作業を行って桟橋を修復させてから行軍を開始。

魏延が陣営を築いている南谷口に到着する前に、

劉禅へ魏延が蜀に謀反を起こした事を知らせる書状を送ります。

劉禅は二通の書状が送られてきた為どちらを信用するべきか、

董允(とういん)蔣琬(しょうえん)に相談。

二人は楊儀の書状を信じるべきであると断言した為、

魏延は謀反人扱いされることになります。

 

魏延死す

 

魏延と楊儀率いる蜀軍は南谷口で対峙することになるのですが、

王平率いる先陣部隊が魏延に「キサマら。丞相が亡くなってまだ日が浅いのに、

なんで謀反人である魏延に味方しているのだ」と一喝。

この王平の一喝によって魏延の部隊は皆逃亡してしまいます。

魏延は軍勢が逃亡してしまった為、部下の馬岱と一緒に漢中へ逃亡することになりますが、

逃亡中に馬岱の裏切りにあってしまい亡くなってしまいます。

 

陳寿の意見

 

正史三国志を著作した陳寿(ちんじゅ)は「もし本当に魏延が反逆するつもりであれば、

蜀軍から離れて魏に降っていたはずである。

しかし彼が魏に降ることをしないで漢中へ向けて軍勢を撤退させたのは、

楊儀達を除いきたいと思ったからではないのであろうか」と述べております。

確かに彼のいう言葉には筋が通っており魏延が本気で反逆するつもりであれば、

魏に降伏するのが一番手っ取り早いと思います。

彼が魏に降伏しなかったのは蜀軍を率いていた楊儀達を除いて、

蜀軍をあるべき姿に戻そうと思っていたのではとレンは考えます。

あながち間違えではないように思うのですが、どう思いますか。

 

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三国志ライター黒田レンの独り言

 

また魏略(ぎりゃく)には驚くべき事が書かれていました。

魏延は孔明から「君が軍勢を率いて蜀軍を撤退させろ」と遺言を受けていたそうです。

楊儀は孔明が魏延に軍勢を率いさせれば、

魏延と対立していた自分が殺害されてしまうのではないかと考えて、

魏延が魏に降伏をしようとしているとの噂を諸将に流したそうです。

そのため魏延は諸将から疑われて殺害されたことになっています。

どちらが正しいのかわかりませんが、

一つ言えることは魏延が魏に降伏しようと思っているわけではないと

言えるのではないのでしょうか。

彼のせいで蜀軍は一時的に内部分裂をしてしまいますが、

魏延も蜀のために行動を起こした忠義の人物の一人と言えるのではないのでしょうか。

 

参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 今鷹真・井波律子著など

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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