日本の総理大臣の名前は言えなくても、1853年にアメリカ艦隊を率いて浦賀にやってきたアメリカ人を知らない日本人はいないでしょう。「泰平の眠りを醒ます上喜撰 たった4杯で夜も眠れず」と250年続いた泰平を破ってしまった男、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督です。
では、ペリーはどうして、日本を開国させようとしたのでしょうか?そこには、偉大すぎる兄に対するペリーのコンプレックスがあったのです。
※ディズニーアニメには、カモノハシのペリーが活躍するアニメ、フィニアス&ハーブがありますが、ここでは取り上げません。
この記事の目次
- 1794年アメリカ海軍の公認海賊だった父と母の間に生まれる
- 尊敬する兄、オリバーが伝説の英雄になり・・
- 兄と違い技術将校の道を歩むペリー
- 兄を越えたい、ペリー提督の情熱は日本開国へ
- 海軍長官ウィリアムに日本開国プランを提案、そして・・
- 日本に来航したペリー提督の用意周到な計画
- どうして、幕府はペリー提督の来航に慌てたの?
- 江戸の庶民は黒船を最初、イベントとして見ていた
- 1年後の約束が半年で再来航、強かなペリー提督の狙い
- そんなアホな、、少しも話題にならなかった日本開国
- ペリー提督の年表
- ペリー提督はどんな人?仕事に厳しいが温情のある人
- ペリー提督の子孫はどうなったのか?
- ペリー提督の名言
- 幕末ライターkawausoの解説
1794年アメリカ海軍の公認海賊だった父と母の間に生まれる
ペリー提督は、マシュー・カルブレイス・ペリーといい、アメリカ海軍の私掠船の船長であるクリストファー・レイモンド・ペリーと、母セイラの間に3男として誕生しました。
私掠船とは、アメリカ政府が公認した海賊で、交戦状態にある敵国の船から、略奪行為を許されたいわば公認海賊です。海賊とはいえ、クリストファーはアメリカ独立戦争に民兵として従軍し、大尉にまで昇進した歴とした海軍軍人でした。
この父の影響を受けてか、3兄弟はいずれも海軍士官になります。特に、二男のオリバー・ハザード・ペリーは、14歳で海軍兵学校に入り、卒業後は父のフリゲートジェネラルグリーンに配属され、1813年、米英戦争中のエリー湖の戦いでイギリス艦隊を沈める事無く、すべて拿捕する手柄を立てて、エリー湖の英雄と呼ばれます。末っ子のペリーは兄の活躍を見て、海軍に憧れ1809年に14歳で海軍に入隊1813年には兄弟揃って米英戦争に従軍しています。
尊敬する兄、オリバーが伝説の英雄になり・・
(画:オリバー・ハザード・ペリーWikipedia)
少年ペリーの夢は、手柄を立てて、いつか兄を越える名声を得る事でした。しかし、1819年、ペリーが24歳の時に思わぬ事件が起きます。アメリカ海軍の英雄、オリバー・ペリーが、ベネズエラ遠征中に、昆虫を媒介して感染する疾病により病死したのです。34歳でした。
エリー湖の英雄になってから、僅か6年後の死は、オリバーを伝説にします。彼の武勇伝は、アメリカの歴史教科書に掲載され、アメリカ人の英雄となり同時に、マシューの手が届かない人物になっていくのです。
兄と違い技術将校の道を歩むペリー
マシュー・ペリーは、1815年にオスマントルコのアルジェ邦との間に起きた第二次バーバリ戦争(北アフリカの海賊退治)に大尉として従軍、手柄を立てますが、以後戦場には恵まれず技術将校としての道を歩みます。1833年には、ブルックリン海軍工廠の造船所長になり、蒸気船の研究に没頭。1837年には、アメリカ海軍2隻目の蒸気船フルトン号の建造に成功しました。この功績で同年には、大佐に昇進、1840年にはブルックリン海軍工廠の司令官になり代将の地位を獲得します。代将とは小規模な艦隊の司令官で、当時小さな海軍しかなかったアメリカは、大佐以上の階級、准将、少将、大将のような将帥クラスを設置していませんでした。ですので、本来艦隊を率いる将帥の地位を代将で補ったのです。つまり、アメリカにおける代将は当時、海軍の最高の階級でした。
1846年米墨戦争が勃発するとペリーはミシシッピ号の艦長兼本国艦隊副指令としてメキシコ湾のベラクルスへの上陸作戦を指揮し本国艦隊の司令長官に昇進、その間も、近代化が遅れていたアメリカ海軍の蒸気船導入や武器の改良整備、新兵の訓練などに功績を挙げ、アメリカ蒸気海軍の父と呼ばれています。
兄を越えたい、ペリー提督の情熱は日本開国へ
今も昔も、アメリカ人は戦争に勝った人物を英雄とします。今でも、アメリカの偉大な大統領は、1にワシントン、2にリンカーン、3にフランクリン・ルーズベルトです。彼らは独立戦争、南北戦争、第二次世界大戦を勝ち抜いた大統領でした。マシュー・ペリーは優れた技術将校でしたし、その功績はアメリカ海軍を強くしましたが、いかんせん地味でした、、
幸か不幸か、ペリーのいた時代は、戦争ばかりのアメリカの歴史であまり戦争がない時代で、彼は勇敢でありながら大きな手柄を挙げられず年齢も50歳を越え、退役の足音が近づいていました。
「コンナコトジャ、オニーチャンをコエラレナイヨ・・」
悩んだ彼が、目を付けたのが極東において開国を拒む日本でした。ペリーは、シーボルトが記した著作「日本」等40冊の日本の関連資料を読みふけり、日本を開国させる術はないか研究を続けます。そう、戦争がダメなら、外交で日本を開国させて、伝説の英雄、オリバー・ペリーを越えようとしたのです。
海軍長官ウィリアムに日本開国プランを提案、そして・・
ペリーは当時の海軍長官、ウィリアム・アレキサンダー・グラハムに意見書を提出、ウィリアムは意見書を当時の大統領フィルモアに出します。当時のアメリカは捕鯨が一大産業であり、蒸気船の薪・水・石炭・食料の補給地として日本を開国する必要性に迫られていました。しかし、フィルモアは、この任務をペリーではなく、ジョン・オーリック代将に与えてしまいます。ガッカリするペリーですが、ここで奇跡が起きました。東インド艦隊を率いたジョン・オーリック代将は途中でサスケハナ艦長のインマン大佐と人間関係のトラブルを起こし広東で病気を理由に解任されたのです。こうして、棚ぼた式に東インド艦隊司令長官の地位がペリーに転がり込む事になりました。きっとペリーはガッツポーズで喜んだ事でしょうね。
日本に来航したペリー提督の用意周到な計画
ペリーは、出発に先立ち国防長官ウィリアムに以下の基本計画を提出します。
・任務成功には、戦艦4隻、内3隻は蒸気船が必要である。
・日本人は書物で蒸気船を知っている可能性があるが実物を見る事で
近代国家の軍事力を認識できるだろう
・中国人同様、日本人も友好より恐怖に訴える方が交渉が有利になる
・オランダの妨害が予想されるので長崎での交渉は避けるべき
これを見ると、まさに日米交渉はペリーの思惑通りに進んだと言えます。軍事力で威圧し、友好より恐怖心を与え交渉を有利に進める。日本を研究しつくしたペリーの計画は的中したのです。
1852年、11月ペリー率いる東インド艦隊は、ノーフォークを出発、大西洋を渡り、半年かかりで5月4日には上海に到着、ここで補給を行い5月26日、琉球王国に到着します。琉球は通商を拒否しますが、ペリーは200名の海兵と軍楽隊、そして、二門の大砲を引っ張って強引に首里城を訪問して大統領の親書を手渡します。
ペリーは那覇港に留守番の艦隊を残し、この後は琉球を拠点に活動します。次にペリーは無人島の小笠原諸島周辺を探索し領有を宣言しますがこれはイギリスとフランスの猛抗議で撤回を余儀なくされます。
そして、1853年7月8日、嘉永六年6月3日、午後5時、ペリー艦隊は、現在の神奈川県横須賀市の東部、浦賀に出現しました。当時、帆船しか見た事がなかった江戸の人々は煙を吐いて帆が無くても自走する蒸気船の科学力に肝を潰します。なお、ペリー艦隊は黒船と呼ばれましたが、これは鉄船の意味でなくただ、艦隊の塗装が黒かった為でした。
浦賀は、江戸湾の玄関先であり、ペリーはこれを利用し艦隊を江戸湾深く進め測量をしたり、アメリカの記念日には空砲をぶっ放したり、黒い煙を吐いて蒸気船を我が物顔で走行し、大統領の親書の受け取りを渋る徳川幕府に圧力をかけ続け恫喝に屈した幕府は親書を受け取ります。ここに3代将軍家光の時代から、200年以上も継続した統制貿易の時代は事実上終結しました。
※なお、この記事では鎖国という表記は用いません、江戸時代には、貿易の窓口は長崎や琉球、松前、対馬などと制限され直接の交易相手は、オランダや中国に限定されていましたが、間接的には、海外との貿易は行っており完全に国を閉じていたわけではなく、幕府の統制下にあったからです。
どうして、幕府はペリー提督の来航に慌てたの?
教科書ではペリー来航しか扱いませんが、実際はペリーの少し前、1846年には、アメリカ東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが来日し開国を迫っていますが、幕府は、いともあっさり拒否しています。どうして、強気な幕府がペリーに対しては弱気になったかと言うと、ペリー艦隊は、パロット砲やダールグレン砲のような炸裂弾を標準装備していたからです。
当時の軍艦の大砲は、ただの鉄の玉で火薬の運動エネルギーで当たった物を破壊するだけなので、仮に砲撃されても、市街地には大した被害が出ません。しかし、炸裂弾は、着弾してから爆発し高熱と破片をばらまきます。特に、日本の家屋は紙と木材ですから、炸裂弾を撃ち込めば炎上し被害が甚大になる事は間違いありません。
もちろん、ペリーは日本の家屋が紙と木でできている事を知っています。知っていたから炸裂弾を装備して日本に来たのです。これは、脅しではなく、本気になれば江戸を火の海に出来るというペリーの冷酷な覚悟と自信を示していました。
江戸の庶民は黒船を最初、イベントとして見ていた
江戸の庶民は、ペリーの黒船をどう見ていたのでしょうか?
当初こそ、戦争かも知れないと恐れた江戸っ子ですが、どうやら、戦争はないと知ると、蒸気船や西洋人の物珍しさに大勢が黒船見物にやってきて、江戸湾の周辺は物売りが出るような大騒ぎになり、勝手に船を漕いで水兵と交流したり、黒船を精巧な筆致でスケッチしたりする人々もいました。
しかし、幕府と西洋との間で正式に貿易が始まると、手工業の日本の生産物は、あっという間に外国に吸い取られ、貨幣価値が下落してインフレが発生するようになり、庶民は外国人と条約を結んだ幕府を憎むようになります。
1年後の約束が半年で再来航、強かなペリー提督の狙い
当初幕府は、条約交渉には時間が必要だから1年間の猶予をくれと要求。ペリーは、それを受け入れて、一度は江戸を離れました。しかし、12代将軍の徳川家慶が病気で死去したという知らせを受けると予定を繰り上げて1854年の2月に江戸にやってきます。前回は4隻の軍艦で、蒸気船は、ミシシッピーとサスケハナの2隻でしたが今回は、これに蒸気船ポーハタンが加わり、帆船は6隻、総数9隻の大艦隊になっていました。
幕府サイドは「話が違う!」と慌てますが、来たものはどうしようもありません。今度は前回以上にペリーの強引な交渉に押され、3月31日には、神奈川県の横浜村で、12条からなる日米和親条約が締結されます。さらにペリーは北上して、函館に向かい函館も開港させようと、松前藩の家老格の松平勘解由に条約を打診しますが権限がないと拒否されました。艦隊は江戸にもどり、6月17日下田(静岡県下田市)の了仙寺に交渉の舞台を移し、日米和親条約の細則を詰めて下田条約を締結しました。こうして、ペリーは日本の情報を研究しつくした徹底分析と、蒸気船の科学力で、徳川幕府を開国させたのです。
そんなアホな、、少しも話題にならなかった日本開国
意気揚々とアメリカに帰ったペリーですが、すでに大統領はホイッグ党のフィルモアから、民主党のピアースに代わっていました。その頃のアメリカは、奴隷制を巡り、南部と北部の対立が先鋭化、開国した日本と貿易を行う所ではなくなり、ペリーの栄光は急速に、色あせていく事になります。ペリーは晩年、アルコール依存、リウマチ、痛風を患い1855年に61歳で海軍を退役し、以後は日本遠征記の執筆に入りますが、1858年の3月4日にニューヨークで死去しました。結局、兄を越えたいというマシュー・ペリーの願いはかなわず、現在でも、アメリカでペリーと言えば、米英戦争で活躍したエリー湖の英雄、オリバー・ペリーの事です。ただ、アフリカの小国であるリベリアでは、黒人奴隷の帰国事業に尽力した人物として著名であるようです。
ペリー提督の年表
ペリー提督の生涯は、大まかに言って以下のような年表になります。
1794年:私掠船の艦長クリストファー・レイモンド・ペリーと
母、セイラの間に3番目の子供として生まれる。
1809年:14歳で海軍兵学校に入学し海軍軍人の道を歩む
1812年:米英戦争に兄弟揃って従軍する
1815年:第二次バーバリ戦争に小艦チッピアの副長として参加
1819年:兄、オリバーハザード・ペリー、ベネズエラで戦病死
1822年:アメリカより、解放奴隷を船に乗せて、北アフリカの
リベリアに護送する。
1833年:ブルックリンの海軍工廠の所長になる
1837年:蒸気船フルトン号の建造に成功、海軍大佐に昇進
1840年:ブルックリン海軍工廠の司令官に就任、代将となる
1846年:米墨戦争でミシシッピ号の副司令官として、
メキシコ湾のベラクルス上陸を指揮。
1851年:国務長官ウィリアムに日本開国計画を提言する
1852年:東インド艦隊司令長官として11月にノーフォークを出発
琉球を経由し、翌年7月8日に浦賀に出現、大統領の親書を手渡す
1854年:再度、日本に来航、日米和親条約を締結する。
1855年:アメリカ海軍を退役し、日本遠征記などの著述に専念
1858年:63歳、ニューヨークで死去。
ペリー提督はどんな人?仕事に厳しいが温情のある人
マシュー・ペリーは身長、193~195センチという巨体の人でした。性格は無口で愛想がなく、仕事熱心、当時の海軍士官と言えば、社交界にも出入りし、モテモテでしたが、ペリーには浮いた話もなく20歳の時に結婚した、妻ジェーン一筋だったようです。部下に対しては、厳しく口うるさく、普段はムスッとしているのに、命令や挨拶の時だけ野太い大声で怒鳴るので「熊親父」とあだ名されます。しかし、人事には繊細に気を使い、温情措置を取る事が多かったようです。彼は家族を愛したアメリカ人らしいアメリカ人で、航海中にも兄弟喧嘩をしないように、何度も手紙を書き送っています。
ペリー提督の子孫はどうなったのか?
ペリーの子孫は、男子が絶えたようで女系だけが伝わりました。著名な人には、それぞれ、ペリーの孫と曾孫に当たる以下の二人がいます。
カルブレイス・ペリー・ロジャース(1879~1912)はアメリカのパイロットで冒険飛行家、アメリカ大陸横断飛行を行いました。マシュー・ペリーの孫に当たり、カルブレイスは祖父にあやかり名付けられています。ジョン・ロジャース(1881~1926)アメリカ海軍航空隊のパイロットで、マシュー・ペリーは母方の曽祖父にあたります。両者とも飛行機野郎であり、そして墜落死という壮絶な最期を迎えます。強く勇敢なペリーの子孫らしいと言えるでしょう。
ペリー提督の名言
日本人は、姿を見せない神秘的なモノに畏敬を持つ民族だ
ペリーは、開国を成功させる為に、それまでに日本と関係を持った西洋人の書物を取り寄せて研究しました。その中でペリーは、日本人は特性として姿を見せない神秘的な存在に畏敬の念を持つと知ったのです。そこで、ペリーは、日本でも琉球でも、あまり外を出歩かず、自分を神秘的に見せるように演出しました。どうしても外出するときには、中国人の苦力に担がせた自作の輿に乗りあまり姿が見えないようにしています。恐らく、天皇などをイメージにおいていたのでしょう。また、日本側の代表でも、小者とみると会おうとせずに門前払いにし自分の威厳を高める事に腐心しています。この演出は成功し、日本側はペリーをアメリカ国王の代理位に思いかなり丁重に遇するようになりました。
幕末ライターkawausoの解説
幕末の出発点となる黒船来航の主人公、ペリー提督について書きました。武力に任せた砲艦外交で強引に開国を迫った横暴なアメリカ人のイメージですが、実は巨体に似合わず、細かい計算と綿密な調査で日本を調べあげて、必勝の体制を敷いてやってきたアメリカの知将だったのです。
孫子の兵法にも、戦わずして勝つのが最上とありますが、武力をちらつかせつつも、実際には使わずに幕府の屈伏に成功したペリーはアメリカ本国でも、もっと評価されてもいい偉人でしょう。それでも兄のオリバー・ハザード・ペリーには勝てそうもないですが・・・
関連記事:西郷糸子はどんな人?西郷どんの3番目の妻は冗談好きのしっかり者
関連記事:愛加那(あいかな)とはどんな人?西郷どんの島妻と西郷隆盛の人生を変えた女房