西郷隆盛は大家族!幕末ビッグダディを解説

2018年2月25日


 

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NHK大河ドラマ西郷(さいごう)どん、まだ物語序盤ですが、西郷家って大家族だと思いませんか?

実際の西郷どんには、何名の兄弟がいて、それぞれどんな人生を歩んだのでしょう。

また、お世辞にも裕福には見えない西郷家の暮らしぶりはどうだったのか?

今回は幕末のビッグダディ西郷家に焦点を当てて書いてみます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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祖父母もいれると11人の大家族だった西郷家

 

昔は貧乏子沢山が日本の標準だったので、兄弟が多いのは珍しくありません。

しかし、西郷(さいごう)家の場合には、健康な人が多かったのか、西郷どんの兄弟が7名

父の吉兵衛の両親まで含めると、11名という大家族に下男などもいたので、

バスケットなら家族で対抗戦が出来そうな人数でした。

 

おまけに西郷家は、薩摩藩では下から二番目の小姓組という下級武士で、

俸禄は47石、これは現在の貨幣価値でも年収350万弱にしかなりません。

父、吉兵衛(きちべい)は経理に明るく、加えて日置家と赤山家の御用人を務めて

一定の収入を得ていましたが、それでも暮らしは楽ではなかったそうです。

 

実際に、7名兄弟でも布団は兄弟分ないので、冬などは布団の奪い合いで

寒い思いをしたと西郷どんが回想しています。

また、御飯時に7名兄弟でご飯を分けていると、貧しい大久保一蔵(おおくぼいちぞう)がきて

黙って兄弟の端に座るので、西郷どんは、7名兄弟の茶碗から、

少しずつ、ご飯を分けて大久保に与えて話もあります。

 

夫の俸給だけでは食えないので、母の政佐(まさ)は畑を耕して野菜などを作りつつ

子育てをしていましたし、西郷どんも16歳で郡方書役助という役所の

アルバイトをして、家にお金を入れていました。

 

西郷どんの兄弟姉妹を紹介

 

では、西郷どんの兄弟について紹介していきましょう。

分かりやすいように年表風に紹介していきますね。

 

1828年長男、西郷吉之助(隆盛)が誕生

1832年長女の西郷琴()が誕生

1833年二男の西郷吉二郎が誕生、

1838年次女の西郷鷹が誕生

1839年三女の西郷安が誕生

1843年三男西郷信吾(従道)が誕生

1847年四男西郷小兵衛が誕生

 

何と、西郷どんと末っ子の西郷小兵衛との間には19歳の年齢差

親子と言ってもよい年齢の開きですね。

 

この中で、西郷安は大山家に入り、長男の大山成美()と結婚しています。

大山成美は西郷吉兵衛の弟で大山家の養子に入った大山綱昌(おおやまつなまさ)の息子で

兄弟には大山巌(おおやまいわお)がいます。

 

大山家は西郷家の僅か四軒隣だったそうで、往来は頻繁にあり

仲が良かったようです。

 

二男の西郷吉二郎は、戊辰戦争で従軍して戦死、四男の小兵衛()は、

西南戦争で兄、隆盛について戦い、こちらも戦死しています。

西郷どんの男兄弟で天寿を全うしたのは三男の従道(つぐみち)だけです。

 

激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末

 

新妻伊集院須賀が見た西郷家の大混雑

 

西郷どんは、生涯に3度の結婚を経験しています。

二番目の妻は奄美大島の愛加那(あいかな)、三番目の妻は本妻の西郷糸子(さいごういとこですが、

最初の結婚は、1852年、伊集院兼善の娘の伊集院須賀(いじゅういんすが)でした。

 

伊集院須賀が西郷どんの嫁に入った頃、嫁いでいたのは

長女の西郷琴だけで兄弟六名は残っていました。

 

独り抜けて、一人入ったのですから、西郷家の11名家族は変化なしです。

末っ子の小兵衛は、5歳、三男の信吾は9歳、二男の吉二郎は19歳、

すでに手は掛からなくなってはいますが、少ない給料での遣り繰りや

プライバシー皆無の生活はお嬢様育ちの須賀には大変だったと思います。

 

おまけに頼りにすべき夫の吉之助は、提言が島津斉彬(しまづなりあきら)に認められて、

だんだんと多忙になってきた時期でした。

そのような状態で、須賀と政佐だけでは手は回らなかったようで、

市来正之丞に嫁いだ西郷琴は度々、実家に戻り幼い兄弟の面倒を見ていたようです。

 

相次ぐ不幸が西郷家の家計を圧迫する

 

大家族の家計の苦しさを同じく大家族ゆえのマンパワーで乗り切った西郷家ですが

1852年には、最大の危機が訪れます。

祖父の西郷竜右衛門(さいごうりゅうえもん)、父の西郷吉兵衛、母の西郷政佐が相次いで亡くなったのです。

 

なにより、47石を保有し、赤山家や日置家の御用人も務めた、

経済に強い大黒柱の吉兵衛が急死したのは痛い事でした。

家督相続は認められたものの、西郷どんの仕事は郡方書役で据え置かれたので

収入は47石から41石に減少してしまいました。

もちろん、赤山家や日置家の御用人の仕事は失う事になります。

 

さらに、借金をして出した葬儀の費用が家計を圧迫していきます。

しかも、地位は変わらないのに、西郷どんは斉彬のお供で江戸に上ります。

大黒柱がいなくなった西郷家では、二男の吉二郎と西郷どんの妻の二人で

家族を支える事になり、より一層生活は厳しくなったのです。

 

貸家に引っ越すも西郷家の貧乏は続く

 

借金地獄と大家族の世話で伊集院須磨は健康を害してしまい、

娘の様子を見に来た伊集院兼善は、あまりの事にびっくりして娘を連れ帰り

まもなく離婚を申し入れてきます。

 

西郷どんは薩摩になく離婚は江戸で文書により知らされるのみでした。

そのような中で西郷安、西郷鷹と順々に嫁にいき、次第に家族は減るのですが

借金の返済が滞り、とうとう加治屋町の家を売却して借金返済に充てて、

上之園に小さな借家を借りて住む事になります。

 

しかし、その後も、西郷どんが奄美大島に流罪にあったり、

(奄美流罪時の西郷どんの石高は6石、後に加増されて12石)

1862年に西郷どんが命令違反で島津久光)の逆鱗に触れて沖永良部に流罪になると、

煽りを受けて、二男の吉二郎も三男の従道も首になり無職無給になるなど

西郷家の貧乏は、1864年に西郷どんが赦免されるまで続くのでした。

 

幕末ライターkawausoの解説

 

西郷家の貧しさには、父の吉兵衛がこさえた借金もあります。

経理に明るい吉兵衛は、若い頃に400両の金を借りて石高の買い増しをしました。

貧しい薩摩藩では、生活の為に石高の売買が出来、西郷家も以前に生活苦から

石高を売った事があるようです。

 

それを買い戻して、財テクをしようと考えたようですが、不幸にも石高を

買い入れる前後に藩の制度が変わり、買い入れられる石高が規定されたのです。

これにより、吉兵衛は超過分の石高を藩に取り上げられた上に、

買い上げた土地をさらに転売しようにも、制度改革の為に価格が激減しており

結局、200両の借金を背負ってしまいました。

 

この200両は大金であり、西郷家は返済に苦しみ、全て返すのに

明治5年までかかったそうです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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