どうして武士は切腹するの?実は簡単に死ねない超痛い自殺の真実




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徳川慶喜ハラキリ詐欺

 

ブシ、カブキ、フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ、テンプラ、外国人の日本人観にもしっかり影響を与えているハラキリこと切腹。昔から、サムライの名誉ある死の方法として尊ばれた処刑の方法ですが、どうして武士は、こんな痛そうな自殺の方法を名誉と考えたのでしょうか?

 

そもそもどうして切腹は名誉ある死なのでしょうか?

調べてみると、切腹は時代により意味合いが違う事が分かってきました。

 

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そもそもどうして武士は腹を切るの?

 

素朴な疑問として、どうして武士は腹を切るのでしょうか?

 

別に毒を飲んでも首を切っても死ぬ事は出来るはずですし、むしろ、そっちの方が苦痛が少なく、早く死ぬ事が出来ますよね?

 

昔の五千円の肖像にもなった新渡戸稲造(にとべいなぞう)は、1900年に発行した著書『Bushido: The Soul of Japan(武士道)』において、古来、日本人は腹に霊魂と愛情が宿っていると考えていて腹を切る行為は自分の霊魂と愛情を他人に示す古代の解剖学的行動だと書いています。つまり、切腹にはただ自殺するだけではなく自分の霊魂に嘘偽りはないそれを周囲に見せるという自己㏚の側面があったと言うわけです。

 

確かに現在でも性格が悪い人を「腹黒い」とか言いますし、相手の考えを確かめるのを「腹を探る」とか言ったりします。お腹に魂と愛情が宿るという考えは現代にも生きていると言えますね。




切腹はいつから始まったの?

 

では、切腹はいつから行われたのでしょうか?

 

記録に残る最古の切腹は平安時代の永延二年、988年、藤原保輔(ふじわらやすすけ)という人物が、盗賊行為をして検非違使(けびいし)に逮捕され、獄中で自分の腹に刃を突き刺して裂き内臓をつまみ出して死のうとしたがすぐには死なず、翌日、感染症で病死したというような記録があるようです。

 

これが、記録に残る日本最古の切腹ですが保輔は公家であり武士ではありません。また、当時、腹を切って死ぬのは珍しい自殺方法であり、実際はそれ以外にも鎧を二重に着て海に飛び込んだり、毒を飲んだり刀を首に当てて馬を走らせ、落馬して自殺する等、様々な自殺の方法があった事が分かっています。とまれかくまれ、この頃には切腹だけが自殺の方法ではなかったようです。

 

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切腹は敗者最期の晴れ舞台?

 

さて、時代が貴族の世から武士の時代に移ると、切腹は武士の自殺方法として、定着していくようになります。

 

では、どうして切腹が武士に好まれたのでしょうか?大きな理由は超痛いからです。お腹には、大きな血管がないので余り出血せず、すぐに死ぬ事はありません。介錯がない場合、数日苦しんで死ぬ事もあるようです。

 

つまり、切腹は痛くて簡単には選択できる死に方ではない事から、これを選択できるのは痛みに耐えられる強く勇敢な武士となりました。

 

また武士の時代は、頻繁に紛争が起きていて、戦が身近にありました。そこで、勇敢な武士は戦に負けても縄目の恥辱を受けず、捕まる前に腹を切って死ぬというのが敗者の美学になったのです。

 

 

例えば室町時代に、6代将軍、足利義教(あしかがよしのり)を暗殺した守護大名、赤松満佑(あかまつみつすけ)の家臣で勇者と言われた中村弾正(だんじょう)は、幕府軍に城が包囲されて落城寸前になると矢倉に上って

 

「これより腹を切る、心ある武士は後の手本とせよ」と言いお腹を十文字に斬りさばいて、内臓を掴み出し下に投げ落としました。

 

それだけでも凄いですが、さらに中村弾正は城に戻って主君である赤松満佑の館に火を放ち、その最後を見届けてから自分の首を刀で突いて自殺して果てたというのです。

 

弾正のセリフから、切腹はこの時代には大きな名誉とされた事が分かります。こうして、切腹は戦に敗れた武士が最期に魅せる自害にふさわしい自殺の方法になったのです。

 

介錯人がつくようになったのはいつ?

 

中村弾正や藤原保輔の切腹を見ると、ある事に気が付きます。どちらも独力で死んでおり、介錯人(かいしゃくにん)がいないのです。しかし、前述したとおり切腹で死ぬのは並大抵の事ではありません。一応、お腹でも背骨の近くには太い動脈が通っていて、ここを切り裂けば出血多量で死ぬ事は出来るのですが、太っている人には厚い脂肪が邪魔し、そんなに深く切るのは不可能でした。

 

吉田松陰の臨終

 

一人で切腹する場合には、腹を裂いてから刀を取り出し、首の頸動脈を裂いて出血死するのが定番でしたが、腹を切るだけでも大変なのに、さらに首の頸動脈を切るなんて並大抵ではないです。

 

 

そうでなくても自分の体に刃を入れると、ショックで筋肉が萎縮して力が入らなくなり中途半端にお腹を切って、悶え苦しむ事になります。また、最悪の場合腸を切り裂くと、そこから糞便が内臓に流れ込み肋膜炎から敗血症を起こし、悶え苦しみ数日かけて死ぬ事になります。

 

 

切腹が一般化すると切腹し損ない、悶え苦しむ惨たらしい死が増えたのでみかねた仲間が介錯して首を切り落としてトドメを刺しました。やがて、この配慮が介錯人として切腹の作法に組み込まれたのです。

 

切腹する豊臣秀次

 

記録に残る介錯としては、安土桃山時代、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子になった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が、後に秀吉に疎まれて自害を申し付けられた時に、寵愛していた小姓達を先に切腹させ、その首を次々に刎ねて介錯したそうです。あまり武勇のイメージがない秀次ですが、正確に小姓の首を切り落とすという事は、かなりの手練れだったのでしょうか?

 

腹を斬らなくていい?江戸時代に生まれた扇子腹

 

武士にとって華の時代だった戦国時代を経て切腹は武士の名誉として完全に規定される事になりました。しかし、江戸時代は200年以上続く太平の時代、合戦なんか起こりません。

 

こうして戦に敗れた武士の最期の晴れ舞台としての自殺、切腹は消え、切腹は失敗や不始末を起こした時に、責任を取らされる方法になります。

 

江戸時代に切腹は自発的な死から刑罰=他殺に変化したのです。

 

ところが、平和な時代になると武士は合戦どころか人を斬った事もない人が99・9%になってしまいます。

 

刀を抜くのは手入れの時だけですから、もちろん剣の腕前もほぼなく不手際をして切腹を申し付けても、刃物が怖くてどうしても刃を腹に突き立てる事が出来なくなりました。

 

そういう武士は多かったようで、切腹の様式も変化し、三方(さんぽう)(神事に使う台)に扇子(せんす)や紙で包んだ木刀を置いておき、切腹者が扇子に手を伸ばしたのを合図に介錯人が首を落としていました。このような切腹を扇子腹(せんすばら)と呼んでいます。

 

史上有名な赤穂浪士(あこうろうし)も大石内蔵助( おおいしくらのすけ)のような上級幹部以外は皆、扇子腹で介錯されたのだそうです。また中には、扇子腹も嫌、介錯も怖い、刃物がダメというウルトラ臆病武士もいて、その場合は毒を飲んで死ぬ事も許されました。

 

扇子腹はともかく、毒を飲むのではもう切腹ではないですね。

 

責任重大な介錯人

 

介錯人が一般化すると、切腹においては介錯人の腕前が重要になりました。当人が見事に腹を切っても、介錯人が斬首をしくじると無用な苦痛を与えるからです。藩には処刑人として山田浅右衛門(やまだあさえもん)のような首切り役人がいましたが、それは罪人の処刑人であり、名誉の死とされた切腹の介錯人ではありません。

 

通常、介錯人は切腹を申し付けられた一族や切腹人の親友などが勤めましたが、一門に武芸に秀でた人間がいない場合には、他家から借りてくる時もあります。太平の世でも、武士は武芸を修めるのが当然とされていたので、介錯を失敗すると武芸不心得として大変な不名誉を被るからです。

 

また、介錯人は完全に首を切り落とさず首の皮一枚残す技量が要求されました。このような斬首法を抱き首(だきくび)と言います。理由は幾つかあり、儒教(じゅきょう)の影響で親からもらった体を切り落とすのは「孝」に反するからという考えや、首を重しにして体が前に倒れるようにする工夫、或いは、首が飛んで砂や土塗れになるのを防ぐ為など諸説あります。

 

ただ、全ての地域で抱き首を行うわけではなく、当人の希望で完全に斬首したり首を切り離すのが習慣の土地もあり一定しません。

 

切腹にまつわる様々な言葉

 

切腹には、それにまつわる幾つかの言葉があります。例えば、仕事の不始末で責任を取らされたり、自分に近い人が処罰されそのあおりで切腹を命じられる事を詰め腹()と言います。これは「詰め腹を切らされる」という慣用句で現代にも残っています。

 

主君が先に切腹した後に寵臣などが腹を切る事は追い腹、義腹と言いました。いわゆる殉死(じゅんし)です、江戸時代中期には追い腹は禁止されますが、武士の美徳として、なかなか全廃する事は難しかったようです。

 

暴虐な主君に対しては、最初に腹を切ってから傷口をさらしで強く巻きその後に登城して命を懸けた諫言をする事があり、これを陰腹(かげばら)と言いました。また、恨む相手を指名して先に腹を切り、相手にも腹を切らせる巻き添え方の指し腹という切腹方法もあったそうです。

 

切腹の様式としては、腹を左から右に一文字に切った後に、さらに刀をみぞおちの下に突き立て、へそまで下ろす十文字腹があります。これは、相当な精神力を伴うやり方で賞賛される切腹方法です。

 

逆に、意に反して無理やり切腹に追い込まれるのを無念腹と言い、腹を裂いてから、内臓を掴んでかき出します。

 

この無念腹には、戦国の猛将、柴田勝家(しばたかついえ)や、織田信長(おだのぶなが)の三男で、秀吉に自害に追い込まれた織田信孝(おだのぶたか)がいます。

 

 

特に信孝は、臣下の秀吉の命令で殺される屈辱で切り裂いた腹から、内臓を掴み出し、掛け軸にぶちまけて死んだそうです。

 

「昔より主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

 

こんな秀吉を呪う辞世を詠んでいる位なので、信孝の無念腹は

半端ではないでしょうね。

 

ズルい?腹を切るのは部下の役目で上司は死なない

徳川斉昭スケベ

 

戦国時代、腹を切るのは城主か主君の役割でした。自分が死ぬ代わりに、城内の全ての人間を助命してくれというのが最期に果たすべきTOPの責任だったわけです。

 

有名なケースには、備中高松(びっちゅうたかまつ)城で羽柴秀吉(はしばひでよし)軍に包囲された城主、清水宗治(しみずむねはる)が和睦の条件に船で城外に出て切腹し、城内のすべての人間の助命を請い秀吉を感動させたという話が残っています。

 

しかし、江戸時代に入ると戦争が無くなるので、武士は藩に仕官が出来れば、後は子々孫々、ヘマをしない限り食いっぱぐれがなくなります。そうなると、殿様が死んで藩が取り潰されると一族から子孫まで、路頭に迷う事になるので、例え殿様の失敗でも藩を存続させるために家臣が責任を取って切腹する事が多くなりました。

 

例えば禁門の変で御所に発砲した長州藩は朝敵として幕府軍の征討を受けますが、この時の処分は藩主、毛利敬親(もうりたかちか)の切腹ではなく戦いを主導した三家老の切腹でした。

 

幕末74-12_松平容保(会津藩主)

 

戊辰戦争(ぼしんせんそう)で敗戦した会津藩(あいずはん)も、藩主の松平容保(まつだいらかたもり)は助命されましたが、やはり会津藩の家老を処分する事が命じられ、三家老でひとり生き残っていた、萱野権兵衛(かやのごんべい)が責任を取らされて切腹しました。

 

「TOPは生き残って家老だけ切腹は汚いよなー」と思いがちですが、江戸時代には、藩主が切腹となれば藩は取り潰しで家臣は路頭に迷います。忠臣蔵でも赤穂藩は浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の切腹を受けて取り潰されてます。

 

なので、単純なとかげの尻尾切りではない部分もありました。萱野権兵衛も容保からの謝罪の手紙を読んで涙を流し、粛々として死に就いたと言われています。

 

「転生したら切腹を申し付けられた武士だった」攻略マニュアル

 

最近は、現世でつまらない人生を生きている主人公がひょんな事から別の時代や異世界にタイムスリップしスライムになったり、織田信長になったりして充実した人生を送るという内容のWEB小説が人気を集めていますが、あなたがタイムスリップして切腹を申し付けられた武士になったらどうしましょう?

 

そこで、慌てぬように切腹を申し付けられて腹を切るまでの手順を解説します。

 

①まず切腹の日時を申し付けられます。

 

②切腹当日には、水にお湯を入れて温度を調節したたらいで沐浴(もくよく)します。

 

③次に(まげ)を結い直します、髷は普段より高く結い逆に曲げます。

このようにするのは、あなたはもう死人だよという儀式です。

 

④着衣は白無地の小袖と、浅葱(あさぎ)色の無紋麻布製の裃です。

小袖は首を打ち落としやすいように後襟(うしろえり)を縫い込んでおきます。

また、着物の襟は左前にして着ないといけません。

つい、うっかりいつも通りに着てしまい恥をかかないように注意です。

 

⑤あなたの前には食事として盃二組と湯漬(ゆづ)け(白飯に湯をかける)に

新香(しんこう)三切れ、塩、味噌の(さかな)、逆さ箸が添えられます。

食事がすむと、あなたは銚子で酒を左酌にて二度注がれ二杯で四度で飲みます。

泥酔すると介錯人が迷惑するのでおかわりはありません。

これで、いわゆる最後の晩餐が終了です。

 

⑥食事がすむと膳が下げられ、切腹に用いる短刀が三方にのせて出ます。

刃物が恐ろしいという人は、扇子や紙を巻いた木刀でも可能です。

後で取り乱すとみっともないので無理はしないように申し出ましょう。

 

⑦ここで正介錯人が登場します、そしてあなたに対して名乗り一礼します。

そして、正介錯人は後ろに回り、介錯刀に水柄杓で水を掛けて清めて、

剣先を天に向けて構える八双の構えを取ります。

 

⑧あなたは、それを確認してから検視役に黙礼して右から肌脱ぎします。

次に左手で刀を取り、右手を添えて押し頂きます。

※扇子腹を採用した時には、この時点で刀が振り下ろされて御仕舞いです。

刀の峰を左に向け直し右手に持ち替えてから左手で三度腹を押しなでます。

そして、気合を込めてへその上一寸ほどへ左から右へ刀で突き立てます。

相当な激痛でしょうが、ここまで来たらもうひと踏ん張りです。

こうして、あなたが刀を引き回すのを合図に介錯人があなたの首を

皮一枚残して斬ってくれます。お疲れ様でした。

 

⑨介錯が終わると、介錯人が表裏白張り白縁の屏風をめぐらせます。

これは、あなたのむごい死に様を人に見せぬようにする配慮です。

次に、副介錯人があなたの首を検視役に見せ検死役があなたの絶命を確認し

切腹の儀式は終了という事になります。

 

最後に柄杓(ひしゃく)の柄をあなたの胴体に差して、斬り外したあなたの首を

胴体に継いで敷絹で死骸を包んで棺に納めます。

 

以上です、これを守っておけば仮に江戸時代に転生してももう怖くないですね。

 

日本で最後に切腹した人は誰?答え:三島由紀夫

 

日本で最初に切腹をした人は文書で確認できる限りでは藤原保輔ですが、では、最後に切腹したのは誰になるのでしょうか?

 

こちらは、2001年に割腹自殺した元柔道家の猪熊功(いのくまいさお)であるようです。柔道家として、東京オリンピックで金メダルを獲得したアスリートで、引退後は柔道の普及に尽力、1993年から東海建設の社長を務めますが負債が増加していき200億円を超え、その責任を取る形で東京都新宿区にあった東海建設の社長室で自刃しました。

 

また戦後、最もセンセーショナルな切腹を遂げたのは三島由紀夫です。作家でノーベル賞候補にもノミネートされた三島は晩年政治的傾向を強め楯の会を組織し対米従属からの自立と憲法改正を主張、1970年には、楯の会のメンバー4名と共に自衛隊市谷駐屯地に侵入、東部方面総監を監禁。バルコニーから自衛隊に決起を呼びかける演説を行った後、総監室に戻り、割腹自殺を遂げました。

 

ただ、同じように腹を切るでも現在には武士がいないので、切腹とは言わず、腹を割る割腹自殺と書かれるようです。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

武家の女性は切腹するのかについては、確たる事が分かりませんが、そんなに多くはないのだそうです。例えば、大正元年に明治天皇の崩御(ほうぎょ)に従い殉死した乃木希典(のぎまれすけ)の妻の静子は腹を切るのではなく、心臓を突いて亡くなっています。また、短刀で喉を突いて亡くなったりするケースもあるので、切腹は飽くまでも武士の男性に顕著な自殺の方法だと言えるかと思います。

 

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コメント

  • コメント (3)

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    • 大柱
    • 2020年 4月 30日

    作法を読んでいくと、自分がこれから切腹をするような気持ちになりました。
    実際に切腹する人は、どんなことを考えながら自らの死と向き合ったんでしょうね。

    • 名無し
    • 2020年 3月 27日

    扇子とった瞬間切られるって楽ね

    • 2019年 11月 08日

    本当に素晴らしい!




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