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島津斉興の家系図はどこに繋がる?鎌倉から幕末までを網羅

2018年3月13日


 

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薩摩藩の藩主、島津斉彬(しまづなりあきら)の父である島津斉興(しまづなりおき)を起点とし、島津藩の家系に迫ってみました。

島津家とはどのようなルーツを持った家系なのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国島津氏のルーツは?鎌倉時代に薩摩に下りてくる

(画像:島津忠久Wikipedia)

 

島津と言えば鹿児島、江戸時代では薩摩ですが、

島津家がこの地に根を下ろしたのは鎌倉時代になります。

島津家は二代目島津忠久(しまづただひさ)から鹿児島に定着しますが、彼が亡くなったのが1227年です。

 

幕末を起点としても、600年以上の歴史のある名家ということができます。

島津家は当初は京都と九州を行ったり来たりという形でしたが、

島津忠久の時代に薩摩の守護・地頭職に就きその後は、

薩摩一筋で一切領地替えの無かった家なのです。

 

九家に分裂して争った中世の島津氏

 

薩摩に定着した島津家ですが、この地は従来の領主の力が強く、

おまけに島津家の内部も分裂していきます。

薩摩藩に定着した島津忠久を初代と考えると10代目の忠国(ただくに)までの間に、

島津家は多くの分家を作ります。

 

若狭(わかさ)島津氏、越前島津氏、伊作(いさく)島津氏、総州(そうしゅう)島津氏、奥州(おうしゅう)島津氏、薩州(さっしゅう)島津氏、

豊州(ほうしゅう)島津氏、相州(そうしゅう)島津氏の合計8家で、本家を合わせると9家になります。

 

中世・戦国期に入りますと、この本家、分家が国内の統一をめざし戦いを開始します。

まず、総州島津氏と奥州島津氏が戦闘状態となり、

一時期は足利幕府の仲裁で和解に至るのですが、

足利幕府の影響力が落ちてくると、もはや内戦は止まりません。

再び薩摩は島津家内部の戦乱が続きます。

これに、従来の領主が加わり薩摩は完全に分裂した状態となります。

 

 

九州統一に王手をかけた戦国島津の大統一時代

 

本格的な戦国時代に入り、島津家は本家12代目の島津忠治(しまづただはる)の時代になりますが、

彼は学問には熱心でしたが、戦国大名としての資質は欠いていました。

そして、島津家の分裂状態で内乱を繰り返しは止まりません。

しかし、伊作島津氏の貴久(たかひさ)が守護職を継いだことで流れが変わります。

貴久は息子である義久(よしひさ)義弘(よしひろ)歳久(としひさ)家久(いえひさ)と共に、

島津家による分裂・内乱を治めていきます。

 

その結果として、薩摩、大隅(おおすみ)と言った薩摩の領土エリアの支配を確実にしていくのです。

更に日向を支配していた豊州島津忠親(しまづただちか)も協力し、薩摩藩の領土である薩摩、大隅、日向が統一され、

在地の領主を配下に組み込みながら、強固で独特な支配体制を作り上げていきました。

 

九州支配に大手をかけるまでに巨大になった戦国大名

島津家はこのようにして出来ていきました。

そして、関ヶ原の戦いを経ても、その領地を減らすことなく

雄藩としての存在感を占めし、幕末時代には、多くの人材を供給する藩となったのです。

 

初代島津家久から9代島津斉興までの近世島津氏

 

幕藩体制下の島津家は島津家久から始まりました。

彼を初代として島津家の近世の流れをみていきます。

島津家久は、38年間も藩政を支配します。

その間38人も子どもを作ったといわれています。

 

そして、後を継いだのは孫の綱貴(つなたか)となります。

その後、家久から考えて3代目となる吉貴(よしたか)は新しい分家を作りました。

越前島津家、今和泉(いまいずみ)島津家です。

これは本家の血筋のバックアップの家で、

本家に後を継ぐ者が無くなった場合、藩主を出すという役割を与えました。

徳川御三家、徳川御三卿のようなシステムです。

 

そして、幕末の名君である島津斉彬に大きな影響を与えた島津重豪(しまづしげひで)

藩政の実権を握る時代がきました。彼は藩主を退いても亡くなるまで実権を握り続けました。

89歳という当時としては怪物のような長命の人物で、蘭癖大名の超浪費家です。

孫で当時の藩主・斉興もたまらなかったでしょう。

   

島津斉興から見て、島津斉彬、島津久光、篤姫は系図上どんな関係

 

島津斉興は、祖父の島津重豪が亡くなりやっと薩摩藩の実権を握りますが、

彼と島津斉彬、島津久光(しまづひさみつ)篤姫(あつひめ)は血統上どのような関係にあったでしょうか。

まず、島津斉彬は斉興の長男です。そして、その弟で後に斉彬の意志を継ぎ

幕末期に薩摩を支える島津久光は、島津斉興とお由羅(ゆら)の間に生まれた子どもでした。

 

そして篤姫は、分家である今和泉島津家出身で、

斉興の兄弟である島津忠剛(しまづただたけ)の長女となります。

その後、篤姫は斉彬の養女となり、徳川家定(とくがわいえさだ)の正室となるのです。

 

今上天皇まで繋がる現代島津氏の家系

 

島津家の血筋は天皇家にもつながります。

昭和天皇の妃である香淳(こうじゅん)皇后は島津家の血を引いています。

薩摩藩の最後の藩主であった忠義(ただよし)の娘、俔子(けんこ)は皇室に入ります。

皇族の久邇宮邦彦(くにのみやくにひこ)王と結婚し、第一皇女である良子(ながこ)皇女を生みます。

この良子皇女が後に昭和天皇の后となる香淳皇后です。

 

香淳皇后は曾祖父に島津斉興を持つかなり島津の血の濃い人物でした。

ですので、今上天皇(きんじょうてんのう)も色濃く島津の血を引いているということになります。

 

※今上とは、在位中の天皇という意味です。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

薩摩藩、長州藩の人脈は、色濃く日本の上層階級に残っています。

それだけ近代日本を創った明治維新の中で活躍し、

その後の新政府の中枢を担った人材も多かったということでしょう。

鹿児島県出身だからといって、現代で特別な恩恵を受けるわけでないのですが、

現在の日本の上流階級の中にその血統を残している島津家は、

それだけ有能な人材を創りだしていたということではないでしょうか。

 

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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末

 
 

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