本寿院とはどんな人?実は篤姫と家定の最大の理解者!

2018年3月24日


 

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本寿院(ほんじゅいん)と言われて、ああ、あの人ねと分かる人はよほどの歴史好きか、

でなければ篤姫(あつひめ)のファンだと思います。

本寿院は12代将軍、徳川家慶(とくがわいえよし)の側室であり、13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)の生母でした。

自分の子の家定が将軍の地位にある頃、大奥の最高権力者でもありました。

NHK大河の西郷(せご)どんでは、嫁いびりの演技に定評がある泉ピン子さんが演じますが

イメージと違い、実は本寿院は篤姫と家定の最大の理解者でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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江戸生まれのおみっちゃん行儀見習いで大奥へ

 

本寿院は1807年、跡部惣佐衛門正寧(あとべそうざえもんまさやす)の子として江戸に生まれます。(異説あり)

本名は美津(みつ)と言いました、多分、おみっちゃんと呼ばれたのでしょう。

美津は1822年、15歳になった頃に行儀見習いの為に大奥に上ります。

大奥と言うと、全くの将軍のハーレムのようですが、そればかりでなく

江戸城内の行儀作法を教える学校の機能も持っていました。

 

大奥で行儀作法を覚えてから実家に戻ると、良家の子女として扱われ

よい縁談が巡ってくるというメリットもあったのです。

もちろん、たまさかの偶然で将軍に見初められてお手が付き、

目出度く懐妊するという可能性もありましたが、数百人も候補がいる中で

選ばれるというのは、宝くじに当たるような幸運でした。

 

持っていたお美津は将軍家慶に見初められる

 

ところが美津は、その偶然の幸運を引き当ててしまいます。

大奥に上る為に先に奉公していた姉の浜尾(はまお)の家に一時居候していた時

将軍家慶のお中臈(ちゅうろう)選びのコンテストに遭遇したのです。

 

しかも、その日、たまたまお中臈候補が一人欠席してしまい定員合わせのつもりで

担当女中が、姉の浜尾に「ちょっと妹さんに出てもらえない」と声を掛けます。

それで、飛び入りでお美津がコンテストに参加しました。

 

家慶はお中臈コンテストを(ふすま)の隙間から覗き、飛び入りの

定員合わせのお美津を見初めてしまったのです。

こうして、美津には家慶のお手が付き、側室の一人になりました。

どこぞのアイドルのデビュー秘話みたいな逸話ですが、

江戸のおみっちゃんは、非常な幸運の持ち主だったのです。

 

ガンバレ徳川

 

13代将軍になる政之介を産む

 

しかし、側室になったお美津は安閑とはしていられませんでした。

家慶はオットセイ将軍徳川家(とくがわいえなり)の子であり、家斉程ではないにしても、

14男13女を儲けた精力絶倫の将軍であり、正室1名に側室が8人、

一夜限りの女性を入れると数えきれない女性と関係を持っていたのです。

この側室達を押しのけて、次の将軍を産むのは、また大変でした。

 

西暦1824年、お美津は江戸城で男子を出産します。

これが家慶の四男の政之介(せいのすけ)で、後の13代将軍の徳川家定でした。

 

沢山の子供をつくった家慶ですが、医療水準の低い当時、

子供達は大半成人する事なく夭折、特に男子はお美津が産んだ政之介以外は全滅です。

お美津もさらに、2人子供を産みますが夭折していました。

 

この政之介も病弱だったのですが、男子は彼しかいないので仕方ありません。

かくしてお美津は再び、幸運にも将軍の生母として大奥の頂点に立つのです。

 

息子の家定が将軍になり、すぐに直面した後継者問題

 

1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航します。

彼が率いた軍艦の中の二隻は蒸気船(じょうきせん)であり黒い煙を吐いて江戸湾を動きまわりました。

 

何より江戸っ子を驚かせたのは、黒船の巨大さでした。

ペリー艦隊の旗艦であるサスケハナは排水量3824トン、

当時の日本の大型船の千石船が排水量200トンですから、

それは、お話にならない大きさである事が数字から分かります。

 

ペリーはアメリカ大統領フィルモアの親書を手渡して開国を要求します。

幕府は、返事に窮して一年間の猶予を願い出て返事を先延ばしにしますが、

ペリーが帰ってからほどなく、12代将軍の家慶は60歳で死去したのです。

 

お美津は落飾して本寿院を名乗り、本丸大奥に移ります。

こうして、将軍は29歳の家定に回ってきますが、家定は生来病弱、

幼い頃に天然痘を患い、顔に痣があり脳性麻痺も患っていたと言われ

言語を発するにもかなり大変という状態でした。

 

しかしそれはいいのです、幕府は、そのような残念将軍が出ても、

問題なく運営できるように、老中や若年寄に権力が集中していたのですから

当時は阿部正弘(あべまさひろ)が老中首座で、なんとか政治を切り盛りしていました。

 

問題は、家定にいまだ子供が出来ずに後継者が不在という事でした。

こればかりは阿部がどんなに頑張ってもどうしようもないのです。

 

次々と正室に先立たれた家定は薩摩からの姫を求める・・

 

もちろん家定が女性嫌いというわけではなく、当時の慣例に従い、

正室を京都から二人も迎えたのですが、二人とも病気で死んでしまったのです。

 

家定の生母である、本寿院としても気が気ではありません。

11代、家斉から繋いだ血脈を受け継ぐのが、一番の親孝行ですし、

徳川家安泰の最善の手段であるからです。

 

ここで、「それならば島津の姫はいかがですか?」と言い出したのが島津斉興(しまづなりおき)でした。

島津氏は、三百諸藩では唯一、11代将軍家斉の時代に島津重豪(しまづしげひで)が娘の茂姫(しげひめ)

正室に送り込んでいて、現在の将軍家とは縁戚の関係なのです。

 

なんにしても前例があるのは強いのです。

当時の老中首座の阿部正弘も、友達の島津斉彬(しまづなりあきら)と連携を深めるのに、

薩摩藩と縁続きである事はメリットであると考えたのでしょう。

本寿院も、丈夫な姫が来てくれて家定に子が出来るなら異存はありませんでした。

 

ようやく輿入れした篤姫に斉彬は別の使命を託した

 

篤姫は紆余曲折の末に、ようやく1855年に江戸城に入り徳川家定の正室になります。

その間に薩摩藩主はお由羅(ゆら)騒動などがあり、島津斉彬に代わっていました。

篤姫はお姫様のイメージにそぐわない程に頑丈な体格をしている女性でしたが、

斉彬は、それでも家定に子供が出来るのは難しいだろうと考えていました。

 

そこで、篤姫には別の使命を吹き込む事にしたのです。

その使命とは、13代将軍の後継者として、水戸出身の一橋家当主、

一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を14代将軍に推すように家定を説得する事でした。

 

本当は権力の争奪戦 一橋派vs南紀派

 

将軍になってからの家定は、常に会議などに出され生来の引っ込み思案な性格が

大きなストレスになり、度々、病気になり寝込んでいました。

元々、丈夫ではない家定ですから、このままポックリもあり得たのです。

 

このような事があったので、島津斉彬や松平春嶽(まつだいらしゅんがく)伊達宗城(だてむねなり)のような外様(とざま)

親藩(しんぱん)の大名は、次の将軍として御三卿(ごさんきょう)の一橋慶喜を推していたのです。

しかし、このような外様や親藩大名の動きに真っ向から反対する勢力がありました。

井伊直弼(いいなおすけ)を筆頭とし、松平容保(まつだいらかたもり)松平頼胤(まつだいらよりたね)、老中の松平忠固(まつだいらただかた)等です。

 

彼らは、外様や親藩大名と違い、つい最近まで江戸城で政治を牛耳っていた

譜代大名(ふだいだいみょう)の代表でした。

実はペリー来航の前後まで、外様や親藩の大名は幕府の政治に口を出す権限はなく

黙っているよりほかは無かったのですが、阿部正弘がフランクに

「ためしに他の大名の意見も聞いてみようよ~」と情報公開してしまったので、

最近は、幕府の政治に関与するようになっていたのです。

 

阿部も譜代大名で、それも家康の祖父の時代からのド譜代なのですが

相当な変わり者大名だったのでしょう。

 

譜代大名からすれば、うっとおしくて仕方ないのですが、

その外様や親藩大名は、次の将軍に親藩大名の徳川斉昭(とくがわなりあき)の息子の慶喜を推して

さらに権力の拡大を望んでいるわけです。

 

譜代大名からすれば冗談ではなく慶喜擁立を阻止する為に、

紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を擁立して対抗する事になります。

慶福は12歳ですが、8代将軍、吉宗(よしむね)の系譜であり血筋としては慶喜より

ずっと将軍家に近いのです。

 

両者の対立は拮抗していましたが、後継者選定には大奥の意見が

重要なウェイトを占めていました。

ところが大奥は昔から保守的であり、血統を重視する気風である上に

一橋慶喜の父である徳川斉昭が大奥受けが最高に悪い人でした。

本寿院は、その経緯から一橋慶喜が大嫌いで

「慶喜が養子になるなら私は自害する」と公然と発言する程でした。

 

なので、斉彬としては家定に嫁いだ篤姫を利用して直接家定や、

本寿院を説得してもらい、大奥での不利を挽回したかったのです。

 

本寿院と篤姫が接近、斉彬とのズレが表面化する

 

篤姫と家定の関係は悪いものではなかったようです。

本寿院も家定も丈夫な姫を求めていたのであり、

篤姫は、その願いに適う存在だったからです。

 

そうなると本寿院としては、篤姫と家定の間に子供が出来る事を期待します。

南紀派が推す徳川慶福も、ましてや大嫌いな斉昭の息子などが養子になるなど

心底嫌なのです。

 

「南紀派も一橋派も養子養子とうるさい限りじゃ・・

家定は不能ではない、温かい目で見てやれば孫も生まれようというものを

もう、どちらの意見も聞きたくないわ」

 

この意見は家定の生母としては当然の感情です。

家定と篤姫との間に孫が生まれて、それが男児である事がベストでした。

本寿院は普通にオババ様になりたかったのです。

ところが、政治的な思惑で水戸派も南紀派も「早く養子を決めろ」とうるさい

まるで家定に子種がないかのような言い分だと不快になったのです。

 

それは篤姫にとっても同じでした。

自分が輿入れしたのは島津家と将軍家の為に世継ぎを産む事であり、

それが一番だと信じる篤姫は、西郷(さいごう)を通してやってくる斉彬の催促(さいそく)の手紙に

段々と嫌気がさしてきたのです。

 

夫の家定にも自分にも、子供をつくりたい意志があるのに、

外野はそんな二人の気持ちを無視して、早く養子をどちらかに決めよと

勝手に盛り上がりいがみあっている。

 

「一体、私は何の為に輿入れしてきたのであろうか・・」

 

篤姫は次第に本寿院に接近し夫婦の関係についても相談するようになります。

本寿院の孫が見たいという祖母としての感情と篤姫の夫の子が欲しいという

感情は一致していったわけです。

 

本来、姑と嫁とは反目しがちですが、「はやく後継者決めろ」という

外野の猛烈なアウェー風に吹かれた本寿院と篤姫はお互いに支え合う関係になった

そういう事のようです。

 

家定の死後は家茂を養子に迎え維新後は篤姫と共に一橋邸で暮らす

 

しかし、運命は非情なもので家定は子供を残せず1858年に病死します。

死因はコレラだとも脚気が悪化したとも毒殺説もあります。

こうなると本寿院は大嫌いな慶喜よりは、血統も将軍家に近い慶福を推す

そのような流れにならざるを得ませんでした。

 

この頃には、篤姫も本寿院と歩調を合わせるようになります。

篤姫に一橋慶喜を執拗に勧めた斉彬も同年に急死しました。

こうして、後ろ盾も無くなった篤姫は徳川の姫として生きていく道を選びます。

 

意地悪な考え方をすれば、島津家より本寿院を代表する大奥の方が

自分の幸せを考えてくれていると考えるようになったからかも知れません。

 

1868年、江戸城が無血開城に決まると、本寿院と篤姫は徳川成栄(とくがわもちはる)が相続していた一橋邸に仲良く移ります。

1885年、明治維新から18年の余生を過ごし本寿院は死去します79歳でした。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

本寿院は幸運に恵まれ、一介の武家の娘から将軍生母に上ったシンデレラガールです。

それだけに何か計算があってのしあがったという人ではなく、

まあ、将軍生母としてそれなりに贅沢もしたのでしょうが・・

 

女性として平凡に、わが子に孫が生まれて将軍家が末永く続く事を

願った人だったのでしょう。

権謀術数と、そんなに縁がないという普通っぽさが家定と嫁の篤姫の

円満な生活を願うという方向にシフトしていき、いわゆる嫁いびりとは

無関係な人になったのかも知れませんね。

 

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