新選組は誤解だらけ!本当はこんな組織だ!

2018年4月7日


 

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京都を我が物顔で闊歩する尊王攘夷(そんのうじょうい)志士(しし)の天敵、それが新選組(しんせんぐみ)です。

時代劇では戦前から馴染みの存在ですが、長い間坂本龍馬(さかもとりょうま)桂小五郎(かつらこごろう)の敵役として

単純な血に飢えた人斬り集団のような描写をされてきました。

それが戦後になると、左翼思想全盛の中、尊攘の志士が革命家として定義され

新選組は時代の流れも分からない反動的な幕府の犬として扱われ散々でした。

そこで今回は、真実の新選組について説明していきます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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新選組とは幕府の犬なのか?

 

新選組の古典的な評価の中に新選組を剣の腕だけで幕府に使われる

無思想な幕府の犬であるというものがあります。

しかし、それは正しくありません、元々近藤勇(こんどういさみ)は天皇を守る親衛隊として

募集された浪士組に試衛館(しえいかん)道場を挙げて応募したからです。

 

近藤勇は正しく尊皇攘夷を標榜していて、天皇を守り京都を守備する

機動警察として紆余曲折の末、京都守護職(きょうとしゅごしょく)松平容保(まつだいらかたもり)の配下になります。

 

当時の幕府は公武合体(こうぶがったい)思想の下で期限を限った攘夷を約束させられ

天皇の意思に従うという立場を取っていましたから、

近藤勇が松平容保の配下にあって尊皇攘夷なのは矛盾しません。

 

新選組は幕府が滅んでも戊辰戦争(ぼしんせんそう)を最期まで戦い続けており、

無思想で金で雇われただけの幕府の犬というわけではないのです。

 

新選組は、いつまでも刀と槍で戦う時代錯誤集団なのか?

土方歳三

 

新選組というと、すでに戦争が大砲と高性能な小銃に変わった時代でも

いつまでも刀と槍の戦いに拘った集団というイメージがあります。

kawausoは土方歳三が戊辰戦争で連敗し、すでに刀や槍の時代ではないと悟り

洋装にイメチェンしたのがとても印象に残っているのですが、

それも実際には間違いであるようです。

 

新選組は幕府陸軍に習い、隊に洋式訓練を施していて西本願寺の境内で

小銃や大砲の訓練をし西本願寺が苦情を会津藩に申し立てして、

壬生寺に訓練場所を移したりしています。

 

土方にしても、五稜郭では洋式陸軍の指揮もしているわけなので

最初からある程度の洋式戦法を理解していたと考えるのが自然です。

 

ガンバレ徳川

 

新選組なんて尊攘派と見れば斬っていた人殺しでしょ?

 

映画やドラマの影響で新選組と言えば、いきなり抜刀し尊攘派の志士を斬る

そんなイメージがされていますが、大きな間違いです。

新選組は京都守護職の会津藩指揮下の正規の治安組織であり、

犯罪の抑止とテロリストの逮捕がその仕事でした。

 

新選組は、複数名で管轄地域をパトロールし、怪しい人物がいれば

藩の名前と当人の姓名を尋ね、逃げたり反抗的な態度の時に捕縛するのが任務で、

刀を抜いていいのは、相手が襲いかかってきた時だけです。

 

新選組が名を挙げた池田屋事件では、当初新選組が劣勢だったので、

手向かいする志士を斬っていましたが、援軍が駆けつけて有利になると

斬らずに逮捕するよう方針を変えました。

 

実際に池田屋事件の報告で近藤勇は、7人を殺害、4人を負傷させ、23人を

捕縛したと報告していて、斬った人数より捕まえた数が多いのです。

これにしても、時間がない上に劣勢である為の非常措置ですから、

前もって準備をして踏み込んだなら殺害した人数はもっと減ったでしょう。

 

そもそもが警察なのですから、テロリストの尊攘派の志士と違い、

どこでもブンブン刀を振り回すというのは許されなかったのです。

 

多数の敵にも勇敢に斬り込む命知らずだった?

 

新選組は腕に覚えのある剣客集団でしたが、

実際に尊攘派を逮捕する時には常に大勢で少数を制圧する方法を取りました。

1866年の三条制札事件(さんじょうせいさつじけん)では、8人の土佐藩士に34人で襲い掛かり、

伊藤甲子太郎(いとうかしたろう)一派を粛清した油小路事件では、7人の敵に35、6人と

大体、相手の5倍の人数を用意し包囲して戦うのが常でした。

 

ただ、新選組はローテーションの中に死番(しばん)を組み込んで、

死番の隊士は敵に真っ先に斬りかかる義務を負っていました。

とはいえ、治安維持組織として味方の被害を最小限にして、敵の士気を挫き

手捕りに出来るように戦い方を工夫していたのが分かります。

   

いつもダンダラ模様の羽織を着ていた?

 

新選組と言うと歌舞伎の忠臣蔵をモデルにしたらしい、

袖口のだんだら(ギザギザ)模様と浅葱色(あさぎいろ)の羽織が有名です。

浅葱とは、ごく薄い藍色で切腹時に武士が着用する裃の色でした。

いかにも常在戦場の新選組らしい衣装ですが、実際には、

このダンダラ模様が見られたのは、池田屋事件辺りまででした。

 

何故かというと、この羽織は見た目より重く、かつ夏は暑苦しく

実戦向きではない事が池田屋事件で明らかになったからです。

また、この羽織の制定者が前局長、芹沢鴨(せりざわかも)であった為に

近藤勇や土方歳三(ひじかたとしぞう)は、早く改めたかったという説もあります。

 

その後衣装は、早速、着込襦袢(じゅばん)襠高袴(まちだかばかま)、紺の脚絆(きゃはん)後鉢巻(うしろはちまき)、白の(たすき)に代わり

さらに以後は目立たぬように黒っぽい衣装になります。

 

 

末期には、黒羅紗筒袖(くろらさ・つつそで)の姿になっていたと言われるので洋式訓練を受けた

幕府陸軍歩兵と大差ない姿になっていたようです。

つまり、銀魂(ぎんたま)の真選組と似たような姿になっていったのでしょう。

洋式歩兵と変わらない姿で京都市中をパトロールする新選組、

それは、それでカッコいい気がします。

 

戦死より内部粛清のような内ゲバ死が多い新選組

 

幕府の武闘派集団として、尊攘派の志士に憎まれ恐れられた新選組ですが

烏合(うごう)の剛の者を統率して出来た集団である為に、路線対立や隊規違反による

粛清(しゅくせい)や処罰による死刑が、戦闘で死んだ隊士を上回りました。

 

新選組の実働5年間で、鳥羽伏見の戦い以前の戦死者は46人を数えますが

その中で敵と戦って戦死したのは、僅か6名で残りの39名が粛清や切腹という

組織の中での処分であったようです。

 

一番多い時に200名を数えた新選組で、5年で39名も処分されたのでは、

組織は崩壊しそうですが、それをまとめ上げて実績を挙げ続けたのは

近藤勇や鬼の副長、土方歳三の力量でしょう。

 

どうして武士は切腹するの?実は簡単に死ねない超痛い自殺の真実

 

身分関係なし、誰でも力量があれば入れた新選組

 

近藤勇や土方歳三が武士身分ではない為か、新選組は士農工商の身分に関係なく

尊皇攘夷の志を持っていて身体壮健なら入れたそうです。

意外ですが、剣の実技などの試験もなかったとか・・

平隊士は、全員泊まり込みの合宿制で、妻子はいてもいいですが、

屯所(とんしょ)から最低40キロ以上離れた所に家を持つように決められました。

これは妻子が近くにいると命を惜しんで働きが鈍るという考えからです。

 

一方で幹部になると、そんな制限は撤廃されて屯所の近くに家を構えても

(めかけ)を持ってもOKになったそうです。

 

前述の通り新選組には実技試験はありませんが、入隊した隊士は

仮同志という試用期間があり、夜中に先輩隊士が敵襲に見せかけて襲いかかるなど

度胸試しを行って能力を試す事があり、この時に逃げるような振る舞いをすると

不適格として追放されたようです。

 

新選組の組織はとても新しかった

 

新選組は、局長の近藤勇の下に補佐の副長、土方歳三を置いて、

さらにその下に副長助勤を10名、監察方(かんさつがた)勘定方(かんじょうがた)を置いていました。

例えば幕府は、老中だけで6~7名もいる合議制ですが、

新選組は各部署の代表一人が責任と権限を持っています。

 

これはフランスの洋式軍隊の組織編制を盛り込んだ可能性があり

新選組が組織の機能重視で新しい制度を積極的に取り入れた

証拠となっています。

 

有名な局中法度(きょくちゅうはっと)は実在していない?

 

新選組の鉄の団結を象徴するものとして、

士道不覚悟(しどうふかくご)で有名な局中法度(きょくちゅうはっと)があります。

 

全部で五か条あり、1武士道に背いてはならない

2新選組を抜ける事は許さない、3無断の借金の禁止

4無断で訴訟に参加してはいけない、

5私闘を行ってはいけないの五か条があったと

言われていますが、局中法度という文言は、

新選組の史料には見いだせないそうです。

 

元隊士の長倉新八(ながくらしんぱち)の証言として有名な新選組顛末記(しんせんぐみてんまつき)では、

私闘の禁止以外の4条は、存在していたようですが、

名称も禁令、法令であり局中法度とは呼ばれていません。

 

局中法度とは、どうやら、子母澤寛(しもざわかん)が昭和3年に書いた小説

新選組始末記においての子母澤の想像の産物のようです。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

誤解だらけの新選組について、書いてみました。

有名過ぎる局中法度という掟は確認できなかったり

健康で尊王攘夷であれば身分に関係なく、誰でも加入できたり

派手なだんだら模様の羽織ではなく、黒っぽい洋式装備で

京都市中をパトロールしていたり、攘夷派志士を斬るのではなく

逮捕するのが目的だったりと、映画やドラマのそれとは

随分印象が違っていたのではないでしょうか?

 

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新選組

 
 

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