孝明天皇はどんな人?毒殺されたって本当なの?


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孝明天皇(こうめいてんのう)は、日本史の特別な時期に在位した天皇です。

36歳で亡くなった天皇ですが、1846年から1867年までおよそ幕末(ばくまつ)と呼ばれる

全期間において君臨した人物であり、彼の一挙手一投足は良くも悪くも

当時の社会情勢に少なからぬ影響を与えました。

強硬な攘夷論者だった天皇の急死の後、日本は一気に倒幕に突き進むのです。

その為に毒殺の疑念が常に消えない天皇でもありました。

 

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1831年仁孝天皇の第四皇子として誕生

 

孝明天皇は、1831年天保2年6月14日に

第120代天皇、仁孝天皇(にんこうてんのう)の第4皇子として誕生しました。

幼名は煕宮(ひろのみや)、上の3人の宮が病死したので1840年に皇太子になり、

立太子の礼を経て、1846年、仁孝天皇の崩御(ほうぎょ)により即位しました。

 

※崩御:天皇が亡くなる事

 

その頃の日本は、常に外国船の接近に悩んでおり、

実際に外国船が上陸し家畜を奪われたり、住民が殺されるような

ケースも起きていたのです。

阿部正弘

 

孝明天皇は、江戸のイケメン老中阿部正弘(あべまさひろ)

外国船の日本接近の状況を報告させ

自身は四海静謐(せいひつ)を願う祈祷(きとう)などを行っていました。

 

歴史の教科書では、天皇は海外の事など何も知らず、ただ西洋人を

野蛮人と思い開国に反対したように書かれますがそうではなく

そもそもアヘン戦争で清がイギリスに敗れた事も幕府から天皇へ

知らされていた事でしょうし、鴉片始末(あへんしまつ)など戦争の詳細が記された本も

次々に写本されて広まっていました。

 

孝明天皇は、単純に外国人が嫌いだから開国に反対なのではなく、

外国人に国を開く事が侵略を招く事を警戒していたのです。

幕府は異国船打ち払い令を緩和すると同時に西洋の技術を導入し

沿岸の警備を固めています。


1854年日米和親条約については、特に反対せず

ペリー

 

1853年、浦賀にペリー艦隊が出現、幕府は大騒ぎになりましたが、

朝廷は平穏なものでした。

翌年には、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が阿部正弘の主導で締結されますが、

天皇がそれを問題視した様子はありません。

 

元々、日米和親条約は薪水の補給や食糧の支給、遭難者(そうなんしゃ)の救助など

通商以前の友好条約とよべる程度のモノで、幕府もいい加減に

「蛮人の遭難者を救助する事で日本国の慈愛を知らしめる」などと

調子の良い事を言っており、天皇としても遭難者を救うのは善い事だと

特に問題にはしなかったのです。

阿部正弘

 

これはひとえに阿部正弘や島津斉彬の根回しのお陰でしょう。

しかし、阿部が死去し、斉彬が死去して朝廷への根回しが出来ない人物が

幕政を担うと事態は急変する事になります。

 

【西洋文明に遭遇した日本の開国秘話に迫る!】
こんにちは西洋

 

1858年日米修好通商条約の判断を迫られ天皇は大慌てになる

井伊直弼

 

1858年安政五年1月14日、江戸から老中首座、堀田正睦(ほったまさよし)が上京し

孝明天皇に対して、アメリカと日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結ぶ事を

許可して欲しいと突然の打診がありました。

 

孝明天皇は混乱します、アヘン戦争以来、西洋が通商を要求するのは、

侵略の第一段階と聞かされている天皇が許可を出せる筈もありません。

 

(幕府はオカしくなったのではないか?どうして国を開き

異人の侵略を許すような真似をするのか?)

 

判断を求められた孝明天皇は近衛忠煕(このえただひろ)鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)三条実万(さんじょうさねつむ)の三大臣

及び議奏(ぎそう)、武家伝奏へ開国か鎖国かを問いただします。

 

しかし、何百年も外交から離れた公卿(くぎょう)に判断が下せるわけもなく

天皇は、さらに大納言(だいなごん)以下蔵人頭(くらうどのかみ)以上に範囲を広げて下問しますが

その他大勢だって開国についての詳しい知識はないのです。

 

結論は、幕府と朝廷で引き続き協議をすべし、

つまり、無回答、無期限の延期でした。


孝明天皇は強硬な攘夷を主張し、朝廷は幕府派、反幕府派に分裂

公家

 

その後、太閤鷹司政通(たいこう・たかつかさまさみち)は孝明天皇に対して幕府の要請に従い

勅許(ちょっきょ)(許可)を下すべきだと主張しますが、

この頃天皇の意思は強固に定まりました。

 

(我が国は長年鎖国を国是としてきたのに、

それを朕の代で軽々しく破っては歴代の天皇に合わせる顔がない)

 

いきなり幕府に判断を投げられた天皇は、何百年の慣例を自分が破る事を

非常に不安に思ってしまい攘夷に凝り固まったのです。

 

元々幕府は外交も内政も独断で行う権利、大政委任(たいせいいにん)を受けていました。

だから、日米修好通商条約も独断で締結し事後承諾(じごしょうだく)で結びましたと

天皇に連絡すればすむ話でした。

 

しかし、開国に反対する徳川斉昭(とくがわなりあき)などの反発を受けた幕府は、

ある誘惑に駆られてしまったのです。

(尊皇心に厚い水戸の隠居なら天皇が認めたと言やぁ、黙るだろ)

 

幕府は天皇には外交の知識などないから、使者さえ出して丁重に頼めば

きっと、「そうせよ」と簡単に許すと高をくくっていました。

 

それが間違いの元でした、孝明天皇は頻繁に国家平穏の祈祷をするなど

外交問題にも敏感であり、責任を丸投げされた以上、

納得の行く説明がない限りは、許可は出さない構えでした。

彼は真面目な天皇だったのです、それが悲劇に繋がりました。

徳川斉昭

 

堀田正睦は空しく江戸に帰り、尊皇派は勢いづく事になります。

「それ見た事か!天子は開国に反対である条約締結は認められぬ」

徳川斉昭等、一橋派はここぞとばかりに条約反対を主張しました。

 

同時に朝廷でも、尊攘派の工作が功を奏して、公卿の中にも、

急速に攘夷派が増殖していきました。

 

天皇を侮り、根回しを怠った幕府は藪を突いて大火事を起こしたのです。

幕末のバランス老中阿部正弘が生きていれば、

こんな初歩的なミスはしなかったでしょうに・・・


  

 

井伊直弼無断で条約に調印、天皇は譲位すると激怒

 

幕府は何度も朝廷とやり取りして、許可を得ようとしますが、

その間にも増々、開国反対の公卿は数を増やし、八十八の公卿が列参(れっさん)

開国に反対して座り込むデモみたいな事件も起きて、天皇は、

「もっと幕府内で話し合って意見をまとめよ」と差し戻します。

 

当時の大老、井伊直弼は国学に精通した尊皇心に厚い人であり、

何とか天皇の許可を得るまで条約締結を引き延ばそうとしますが、

アメリカ総領事のハリスはこれ以上待たせるなら戦争になると脅迫し

結局、合理主義者で尊皇心も薄い、老中の松平忠固(まつだいらただかた)が、

 

「バカめ、京の長袖(ながそで)どもに国の大事が決められるものか!」

独断で条約を締結しました。

 

自分に無断で条約を締結した幕府に天皇は激怒しました。

 

「許可を求めたから、まだ早いと回答したのに、

今度は朕の意を無視して条約を結ぶとは何事だ!

こんな屈辱は初めてぞ、朕は譲位する」

 

つまり6歳の皇太子に皇位を譲り天皇を辞めると言い出します。

一同は驚き、御三家と井伊大老に申し開きをさせるので

お待ちくださいと宥めました。

 

その頃、斉昭と徳川慶勝(とくがわよしかつ)は無断登城して条約締結に抗議し、

井伊に謹慎を命じられ京都には行けませんでした。

また、名指しされた井伊も、なまじ尊皇心があるので、

叱られる事を恐れて代役を行かせました。

 

そして、当てつけのようにロシアとイギリスともアメリカと

同様の通商条約を結んだのです。

 

それを聞いた天皇は再度、譲位の意志を漏らしました。

幕府に自分の意思をコケにされプライドがズタズタに

なってしまったのです。

 

孝明天皇、水戸藩に戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を下す

 

水戸藩の尊攘派は、当主と隠居を井伊大老に謹慎にさせられ、

もはや天皇を頼るしかないと京都での工作を開始、

勅命によって井伊を排除しようと画策します。

 

これが戊午の密勅ですが、内容は決して倒幕を目指したものではありません。

幕府は独断で事を進めずに諸大名の意見を聞くようにせよ。

諸大名もそのつもりで、幕府に要請するようにが趣意(しゅい)でした。

 

しかし、問題はこの密勅が幕府の頭越しに水戸藩に届いた事であり

それは、天皇は幕府の許可なしに政治に口を出してはいけないという

260年の慣例を破る事でした。

井伊直弼

 

これに大老井伊直弼の怒りが爆発し、安政の大獄が始まる事になります。

井伊は老中、間部詮勝(まなべあきかつ)を京都に遣わし、戊午の密勅に関わった

水戸藩士、鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)鵜飼幸吉(うがいこうきち)、鷹司家諸大夫の小林良典(こばやしりょうてん)捕縛(ほばく)します。

 

間部は孝明天皇に拝謁し、日米修好通商条約の無断締結の言い訳を行います。

つまり幕府としては、条約はやむを得ず結んだもので本意ではなく、

沿岸の警備を強化して国力がついてから、平和か戦争いずれかを選ぶつもりなので

ここは曲げて条約の勅許を得たいと言ってきたのです。

 

しかし、孝明天皇は条約勅許は日本の国体に傷をつける愚策であり

承認できないと突っぱねてしまいます。

間部はしつこく参内して、言い訳を繰り返しつつ天皇に心理的な圧力を加えるように

戊午の密勅に加わった人々を逮捕していきました。

 

その中には、天皇に同調して開国反対を唱える近衛忠煕や

鷹司輔煕、鷹司政通などの処分も含まれていました。

つまり、間部は表面では頭を下げながら、天皇の首を真綿で絞めるような

矛盾した事を行っていた事になります。

 

最近は、何かというと歴史的に長州は天皇を蔑ろにするという主張を見ますが

なかなかどうして尊皇心がない事では幕府も劣りはしないのです。

 

それでも天皇は容易に首を縦に振る事はなく、間部はついに、

「いずれ条約を破棄して元の鎖国に戻す(期限は定めず)」と約束してしまいました。

この瞬間に幕府はいずれ必ず攘夷を行うと宣言したも同然となり、

天皇は心中氷解(しんちゅうひょうかい)したと勅書を下します。

 

幕府、和宮を嫁にくれないと攘夷をやらないぞで脅す

 

やりたい放題をしていた井伊直弼は、尊攘派の水戸藩士等に恨まれて、

1860年の3月3日に桜田門外(さくらだもんがい)で襲撃されて首を刎ねられます。

これで、幕府は大人しくなるかと思いきや、今度は邪険にした朝廷に(すが)

幕府の権威を回復しようとしました。

 

幕府は京都所司代(きょうとしょしだい)酒井忠義(さかいただよし)を遣わして、孝明天皇の異母妹の和宮(かずのみや)

14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)の正室に下さいと執拗に嘆願(たんがん)を開始するのです。

武の代表の幕府と文の代表の朝廷が縁組をするので公武合体(こうぶがったい)と言います。

 

しかし幕府には不信感しかない孝明天皇はこれを拒否しました。

すると、幕府は和宮の実母や伯父を説得する方針に転換します。

 

同時に、この難局を乗り越えるには幕府と朝廷が力を合わせる事が大事で

和宮と徳川家茂の結婚は、その象徴だと言うのです。

 

国内の安定を盾に取られた孝明天皇はそれ以上、拒否する事が出来ず

侍従の岩倉具視(いわくらともみ)とも相談したうえで、

「遅くとも10年以内に条約の破棄か外国を攻撃する攘夷を行う」という

幕府の言質を取った上で和宮降嫁を認めました。

 

しかし、和宮はこれに猛反対します。

彼女には、5歳の時に決まった許嫁、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)がいたからです。

今度は兄妹で嫁に行け!行かないのバトルが勃発しますが、業を煮やした天皇は

「和宮が強いて嫁がないなら、私は譲位して和宮も尼にする」と決定し

さらに幕府にも、強情な和宮の実母と伯父を処罰するように命じたので、

板挟みになった和宮は、泣く泣く降嫁を受け入れ関東へと下っていきました。

 

長州藩が席巻する朝廷に嫌気が差す天皇は排除を命じる

 

1861年、長州藩直目付、永井雅樂(ながいうた)の航海遠略策が上奏されると、

長州藩が薩摩藩を抑えて京都の主役として台頭してきます。

 

しかも航海遠略策は元々、公武合体を推進する幕府に沿う内容でしたが、

長州藩の過激派(松下村塾出身者)は永井の航海遠略策を不満として

朝廷工作を続け、ついに長井を失脚させて切腹に追い詰めると、

尊皇攘夷倒幕を掲げるようになり過激化します。

 

ここに、土佐藩でテロによる藩政転覆を成し遂げた武市瑞山(たけちずいさん)率いる

土佐勤皇党が合流、全国から過激な尊攘派の志士が集まり、

幕府関係者を暗殺する天誅の嵐が吹き荒れます。

 

1863年の4月、攘夷の履行を迫る尊攘派公卿の上洛要請に折れた幕府は

14代将軍家茂が将軍として230年ぶりに上洛。

この頃、長州藩の威勢は頂点に達します。

 

また、長州は過激派の公卿、三条実美(さんじょうさねとみ)姉小路公知(あねこうじきんとも)と共謀して、

偽の勅書を乱発して幕府を苦しめたので天皇は不信感を持ちます。

天皇にとり、幕府は胡散(うさん)臭い所はあっても、頼るべき唯一の政府であり

逆に攘夷を盾に幕府を窮地に追い込む長州藩には嫌悪感がありました。

 

特に石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)への行幸では、体調の悪さを訴える天皇に

三条実美が「無理にでも鳳輦(ほうれん)(天皇専用の輿)に乗せる」と

発言した事があったとされ、天皇の不信感はMaxになります。

 

 

「長州は口先では皇室の権威を守る、称揚すると大義名分を口にしつつ

その実、朕の意志など無視し好き勝手な振る舞いをしておる」

 

孝明天皇は、お気に入りの松平容保に長州藩の排除を命じました。

これに長州の台頭を苦々しく思っていた一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)と薩摩藩も同調し、

八・一八の政変が勃発、長州藩は御所の警備の任を解かれて出入り禁止、

過激な尊攘思想を持つ、七人の公卿は御所を追放されて長州に落ちます。

 

間もなく、新選組による池田屋事件などが起きて、暴発した長州藩は、

藩兵を率いて御所に進撃、大砲を門に撃ち込むなど狼藉(ろうぜき)に及び、

会津藩(あいづはん)、薩摩藩など御所を守る幕府と藩の兵と衝突して敗れ去ります。

これを禁門の変(きんもんのへん)と言います。

 

情勢は倒幕派有利に傾き、攘夷を唱える天皇は疎まれる・・

坂本龍馬

 

一時的に勢力を失った尊攘派ですが、薩摩藩が幕府を見限り

長州藩に接近した事から、再び尊攘派にキャスティングボードが遷ります。

1866年には、坂本龍馬(さかもとりょうま)中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の仲介で薩長同盟(さっちょうどうめい)が成立。

この頃には、薩摩も長州も外国と戦い敗れた経験から近代化の必要を痛感、

攘夷を捨て去り倒幕一本に絞りました。

徳川慶喜の切腹

 

一方で、幕府でも一橋慶喜が日米修好通商条約を含む

安政条約の勅許を天皇に迫り、許可が下りないなら、

責任を取って切腹すると死ぬ死ぬ詐欺を決行します。

 

万が一死なれて、これ以上幕府が弱体化してはたまらない天皇は、

あれほど嫌がった諸外国との条約を許可し、

ここに、幕府の攘夷の約束も完全に反故にされました。

 

(嫌がる妹を嫁にやり、重臣を隠居させられる苦痛にも耐えてまで

開国を拒んできたのに、、(ちん)っていったい・・)

 

それでも、天皇は京都に近い兵庫の開港などは頑なに拒否します。

当然です、誰も納得がいく開国の理由を示してくれないからです。

周辺が時流を読んで、コロコロ倒幕開国へ鞍替えする中で天皇は、

いつまでも攘夷に(こだわ)頑迷(がんめい)な暗君として岩倉具視や、大久保一蔵(おおくぼいちぞう)

批判され孤立を深めていく事になります。

 

そして、1867年1月30日、天皇は天然痘(てんねんとう)に罹り(にわ)かに崩御(ほうぎょ)します。

在位二十一年、36歳の若さでの死でした。

 

孝明天皇は暗殺されたのか?

 

天皇の死後、睦仁(むつひと)親王が16歳で即位して明治天皇になります。

心情的に幕府寄りだった孝明天皇の死は倒幕派には有利となり、

徳川慶喜や松平容保など佐幕派には不利になりました。

 

この事から、昔から孝明天皇の死には毒殺説が繰り返し浮上し、

倒幕派に寝返った岩倉具視が、頑固に攘夷を唱える天皇が邪魔で毒殺した説や

反対に攘夷を反故にした幕府を天皇が疎んじたので、都合が悪くなった

徳川慶喜が暗殺させたという説もあります。

 

中には、伊藤博文(いとうひろぶみ)は忍者の一族であり、御所に忍び込んで天皇を殺し、

さらに睦仁親王まで殺害し替え玉にすり替えたというトンデモ説も出ました。

ですが、当時の長州藩は朝敵として京都から排除されているのに、

どうやって伊藤は御所まで忍び込んだのでしょうか?

 

また、伊藤博文がそんな凄腕の忍者なら御所ではなく大阪城に忍び込んで

慶喜を暗殺した方が幕府の崩壊は早いと思うのですが・・

 

元々、天皇には脱肛(だっこう)の持病がある以外は身体健康であり、天然痘も回復途中なのが

急に病状が悪化して崩御した事から、医師の中に毒を盛った人間がいて、

その糸を引いていた黒幕がいるというのが暗殺説の根拠でした。

 

しかし、近年発見された史料では、孝明天皇が天然痘から回復しつつあるという

医師の所見自体が、天皇の急死による政情不安を避ける為につかれた嘘で

実際の天皇は回復する事なく死んだという説が有力です。

 

また、変わった説としては、天然痘自体が孝明天皇を殺す為のバイオテロで

西洋医学を最期まで拒否した孝明天皇なら、天然痘ワクチンを打っていないので

確実に殺せると意図したのではないか?とも言われます。

 

物的証拠はないながら、現在では天然痘による病死が有力なようです。

 

幕末ライターkawausoの独り言

 

孝明天皇というと、攘夷に凝り固まった頑迷固陋な西洋嫌いと言われがちですが

そこには、開国からの侵略というアヘン戦争以来の強迫観念があった事を

見逃してはいけないと思います。

 

実際に孝明天皇の遺品には、ブキャナン大統領より贈られたウォルサム社製の

懐中時計(かいちゅうどけい)があり、天皇が西洋文明の全てを否定していたわけではありません。

一番不味(まず)いのは天皇に納得がいく説明を、幕府も尊攘派もしようとせず

調子の良い事だけを言い天皇を飾りとして利用した事ではないでしょうか?

 

「今はやむを得ず国を開いても国力を蓄えて軍備を増強すれば、

西洋人に国土を蹂躙される事はないと硬くお約束します」

 

そのように誠心誠意説明できる人がいれば、孝明天皇も生前に攘夷を捨て

開国を苦渋の決断で選んだのではないかと思います。

 

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