大奥には入れ替えがあった?意外に知らない大奥

2018年5月15日


 

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篤姫

 

大奥(おおおく)のドラマや映画が放映されてきましたが、女性同士の権力争いや

愛憎渦巻(あいぞううずま)く女の(その)というイメージが先行していたという印象を受けた人がいると思います。

大奥について知られていないことが多いと考えられます。

 

これまでに大奥について取り上げた記事の中で

『大奥の規模はどの位あったの?』では、大奥で働いていた女中の数や経費など

幕府の財政面を中心に取り上げました。

大奥で働いていた女中は700人程度で、

幕末の時が最も多く1000人いたと言われています。

 

読者の中には大奥で働いていた女中はどのくらいの期間働いていたのか

気になっている人がいると思いますが、『大奥の規模はどの位あったの?』では

経費節約でリストラがあったケースを取り上げただけで、

リストラ以外でやめた女中の話を取り上げていません。

ここでは、最初に大奥に秘密が多いことや大奥の内部について取り上げます。

その後にリストラ以外で大奥の入れ替えがある場合を取り上げます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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どうして大奥のことは秘密が多いのか?

江戸城

 

大奥に入ると、女中たちは内部情報を漏らさないという誓詞血判(せいしけっぱん)をしました。

誓詞血判をしているため、内部の記録を残すことができなかったと考えられます。

 

大奥の内部情報が残っていない要因として、

職制が複雑で大奥の規模が大きいことから

一人の女中が大奥全体を知ることが不可能であると考えられます。

 

まず、職制について、大きく分けて将軍や御台所に謁見できるお目見え以上、

将軍や御台所(みだいどころ)謁見(えっけん)できないお目見え以下、お目見え以上の女中に

私的に雇われている部屋方の3つがあります。

それぞれの職制の中で細かく身分が分かれているため複雑でした。

 

大奥にいる女中は700人ぐらいでした。女中の部屋の数があまりにも多く、

全体を把握することが不可能でした。秘密を漏らすことができないだけでなく

物理的に把握することもできなかったと考えられます。

 

将軍死後の大奥女中の身の振り方

 

将軍の死後、女中(じょちゅう)はどうなるのか気になっている読者がいると思います。

まず、将軍から寵愛(ちょうあい)を受けた正室や側室の場合、

一生江戸城から出ることがありませんでした。

将軍の死後、江戸城内の桜田の御用屋敷に移り、

位牌をいただいて将軍の冥福を祈っていました。

中には出家した女中がいたと言われています。

 

西郷どん

 

大奥をやめた女中の待遇(たいぐう)は?

 

江戸時代、女性は独自に身を立てるのが難しい時代でした。

女性が唯一キャリアアップできたのが大奥での奉公(ほうこう)で、

女性が出世できる唯一の場所でした。

 

大奥の女中が出世できるのは次の通りです。

将軍の正室または側室になって子を産み、その子が将軍になれば、

自分だけでなく親元にも恩恵が及びました。

 

正室・側室に慣れなかった場合でも御年寄(おとしより)の地位にまで出世できれば

権勢を手に入れることができました。

 

大奥で出世できず、途中で大奥をやめたとしても

江戸時代の社会の中では評価が高かったようです。

当時、大奥奉公が女性の花嫁修業の一環として考えられていたため、

結婚に有利になっていました。

 

上臈年寄には、何世代もの将軍に仕えたケースも

 

将軍の死去などで代替わりがあった場合、大奥での奉公をやめる女中はいますが、

必ずしも全員というわけではありません。

大奥の最高職の上臈年寄(じょうろうとしより)は二・三代の将軍に仕えたケースは珍しくありません。

幕末の大奥の実力者と言われていた滝山(たきやま)については四代の将軍に仕えていました。

   

財政難の時にはリストラもあった大奥

 

江戸幕府が財政難になったことがあります。財政難の原因として、

大奥の女中が贅沢をしていたため相当経費がかかっていました。

経費節約のために大奥のリストラをしたケースがあります。

 

まず、徳川吉宗(とくがわよしむね)の享保の改革について取り上げます。

『大奥の規模はどの位あったの?』では

徳川吉宗による大奥のリストラについて取り上げました。

 

美人の場合、他に貰い手があるからということで、美人をリストラしました。

ブスの場合、貰い手がないことから引き取ったと言われています。

また、このリストラは経費節約のためですが、

尾張藩寄りの女中を排除する狙いがあったともいわれています。

 

他に、享保(きょうほう)の改革の後、寛政(かんせい)の改革の松平定信(まつだいらさだのぶ)が大奥に倹約(けんやく)を命令しました。

倹約を命令したものの、大奥に嫌われました。

松平定信は寛政の改革に行き詰まり、失脚しました。

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

 

今回は大奥の入れ替えについて取り上げました。

大奥に入ると一生出られないと言われていましたが、

将軍から寵愛を受けない限り、やめるのもやめないのも自由だったと考えられます。

女中の一日の仕事内容や勤務時間から

ブラック企業になるかならないか気になるところです。

 

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ガンバレ徳川

 

 

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kawauso編集長です。 はじ三の中の人です。 様々なトピックを立てますが 盛り上がらない時には ごめんね。 大体、咬まないので 気軽にからんでもらえると 嬉しいです。

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