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【三国志問題】リアルな武装率ってどれ位あった?

2018年5月21日


 

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呂布

 

時を超えて語り継がれる名著、三国志(さんごくし)、しかし私達が見ているのは、

メディアとして加工された物語としての三国志であり、真実の三国志とは、

多少の差異が生じています。

例えば映画やゲームの三国志では、武将から歩兵まで完全武装をしているように

見えますが、本当の武装率はどの程度だったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



後漢時代の武装率は40%

于禁

 

三国志の時代の武装率を語る前に、その手前の時代である

後漢の時代には、兵士はどの程度武装していたのかを解説します。

中国古代兵器論叢(ちゅうごくこだいへいきろんそう)」によると、後漢時代の武装率は40%前後であるようです。

あれ?と思う程に少ないですよね。

 

当時の兵士は兵役の義務を課された庶民でしたが、

鎧や()は政府から貸与されていました。

主な任務は辺境から侵入してくる匈奴(きょうど)への対策でしたが病死したり、

戦死したりすると、装備品は次の兵士に回されたそうです。

 

リサイクルと言えば、リサイクルですが、

死んでしまった人の装備品を回された兵士の気分は、

かなり複雑だったのではないでしょうか?

 

三国志の天下分け目、官渡の戦いの驚きの武装率は?

 

では、時代を進めて西暦200年の官渡(かんと)の戦いの時の装備率を考えます。

当時は群雄割拠の乱世であり、税収は激減し工業も減退期を迎えており、

後漢の時代より、兵士の装備率は低いです。

 

その中で当時、最強の群雄だった袁紹軍の装備率ですが、

これが14%だと言われています。

曹操と袁紹

 

根拠というのは、曹操に降伏した袁紹軍の兵力が7万人であるのに対し

鹵獲(ろかく)した甲冑(かっちゅう)が1万領あったからという事だそうです。

また、曹操軍は馬の鎧も三百()鹵獲しているそうなので、

当時の袁紹軍には重武装した騎兵が少なくとも三百いた事になります。

 

しかし、これはまだマシな方で、勝利した曹操軍の装備は鎧20領に

馬鎧10具なのだそうです。

これは袁紹軍が鹵獲した鎧かも知れませんが、それなりに袁紹にやられている

曹操軍の装備率は一桁台だったのかも知れません。

これだと司令官クラス以外は、誰も鎧を着ていなかった感じですね。

于禁

 

ほとんどの兵士が鎧を装備していなかった普段着の曹操軍、、

「俺達ゃ裸がユニフォーム!」のアパッチ野球軍みたいです。

 

時代を超えて愛される中国四大奇書「はじめての西遊記はじめての西遊記

 

魏呉蜀三国で一番武装率が高いのは?

孔明

 

ほとんど裸で戦っていたような三国志の初期の軍隊ですが、

魏呉蜀の三国に勢力が収斂されて、それなりに官僚機構が整ってくると、

道路が整備され、商業も起こり工業力も再び上昇してきました。

 

ですので、西暦229年以後の三国志の時代の武装率は後漢時代と同等か、

それ以上になったと考えられています。

三国志の兵士

 

魏呉蜀の三国の中で、もっとも武装率が高かったのは国力では最弱の蜀です。

諸葛孔明(しょかつこうめい)丞相府(じょうしょうふ)でも武器、防具を作成させていて(わき)の下も鎧でカバーした

筒袖鎧(とうしゅうがい)は孔明が考案したという伝説があります。

 

【悲報】孔明の発明品で戦死した人物が実在した。鎧を過信した南朝宋の軍人・殷孝祖

 

両袖鎧は頑丈で、将校用のそれは670キロの張力の弩で射撃しても

貫通しないと言われる程で南北朝時代までも使用されています。

 

孔明の北伐でも蜀軍は敗北は多いですが、そんなに将兵は死んでいません。

それも孔明の「武装率を上げて命を大事に政策」が反映されているのでしょう。

少ない人口を戦争ですり減らすわけにはいかないという事情も

武装率を上昇させる理由にはなったでしょうね。

 

三国志のアパッチ野球軍 呉の武装率が低い理由は?

三国志の呉

 

逆に武装率が一番低いのは呉でした。

呉において精鋭部隊だった丹陽青巾兵(たんようせいきんへい)は鎧を着けずに盾と刀で武装し

頭には青い巾を巻いた兵士です。

 

さすがはワイルド呉「鎧なんかいらねえ、矢は精神力で跳ね返す」のかと思いきや

呉で武装率が低いのは水上戦が多いからであるようです。

船の上では身軽である必要があり、重い鎧をつけて戦い水に落ちたら

溺死(できし)する確率が高まるので防御は盾で行っていました。

曹操と劉備

 

しかし、片手を盾に取られるので、小回りが利かない

船上の戦いは大変だったようです。

やっぱり、矢なんか精神力で跳ね返すというド根性の人が

呉には多かったような気がします。

元々は、バーサーカーのような楚人(そじん)がいた土地なので・・

   

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso

 

知られざる三国志の時代の武装率について書いてみました。

こうしてみると、三国鼎立(さんごくていりつ)の頃までは、兵士は武器以外は、

着の身着のまま、敗残兵から鎧を奪って身に着けるのが、

精々だったような感じがしますね。

ちょっとでも矢が当たれば重傷になる、ほとんど裸状態、

この時代の兵士にはなりたくないですね。

 

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kawauso編集長

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