時を超えて語り継がれる名著、三国志、しかし私達が見ているのは、
メディアとして加工された物語としての三国志であり、真実の三国志とは、
多少の差異が生じています。
例えば映画やゲームの三国志では、武将から歩兵まで完全武装をしているように
見えますが、本当の武装率はどの程度だったのでしょうか?
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この記事の目次
後漢時代の武装率は40%
三国志の時代の武装率を語る前に、その手前の時代である
後漢の時代には、兵士はどの程度武装していたのかを解説します。
「中国古代兵器論叢」によると、後漢時代の武装率は40%前後であるようです。
あれ?と思う程に少ないですよね。
当時の兵士は兵役の義務を課された庶民でしたが、
鎧や弩は政府から貸与されていました。
主な任務は辺境から侵入してくる匈奴への対策でしたが病死したり、
戦死したりすると、装備品は次の兵士に回されたそうです。
リサイクルと言えば、リサイクルですが、
死んでしまった人の装備品を回された兵士の気分は、
かなり複雑だったのではないでしょうか?
三国志の天下分け目、官渡の戦いの驚きの武装率は?
では、時代を進めて西暦200年の官渡の戦いの時の装備率を考えます。
当時は群雄割拠の乱世であり、税収は激減し工業も減退期を迎えており、
後漢の時代より、兵士の装備率は低いです。
その中で当時、最強の群雄だった袁紹軍の装備率ですが、
これが14%だと言われています。
根拠というのは、曹操に降伏した袁紹軍の兵力が7万人であるのに対し
鹵獲した甲冑が1万領あったからという事だそうです。
また、曹操軍は馬の鎧も三百具鹵獲しているそうなので、
当時の袁紹軍には重武装した騎兵が少なくとも三百いた事になります。
しかし、これはまだマシな方で、勝利した曹操軍の装備は鎧20領に
馬鎧10具なのだそうです。
これは袁紹軍が鹵獲した鎧かも知れませんが、それなりに袁紹にやられている
曹操軍の装備率は一桁台だったのかも知れません。
これだと司令官クラス以外は、誰も鎧を着ていなかった感じですね。
ほとんどの兵士が鎧を装備していなかった普段着の曹操軍、、
「俺達ゃ裸がユニフォーム!」のアパッチ野球軍みたいです。
時代を超えて愛される中国四大奇書「はじめての西遊記」
魏呉蜀三国で一番武装率が高いのは?
ほとんど裸で戦っていたような三国志の初期の軍隊ですが、
魏呉蜀の三国に勢力が収斂されて、それなりに官僚機構が整ってくると、
道路が整備され、商業も起こり工業力も再び上昇してきました。
ですので、西暦229年以後の三国志の時代の武装率は後漢時代と同等か、
それ以上になったと考えられています。
魏呉蜀の三国の中で、もっとも武装率が高かったのは国力では最弱の蜀です。
諸葛孔明は丞相府でも武器、防具を作成させていて腋の下も鎧でカバーした
筒袖鎧は孔明が考案したという伝説があります。
【悲報】孔明の発明品で戦死した人物が実在した。鎧を過信した南朝宋の軍人・殷孝祖
両袖鎧は頑丈で、将校用のそれは670キロの張力の弩で射撃しても
貫通しないと言われる程で南北朝時代までも使用されています。
孔明の北伐でも蜀軍は敗北は多いですが、そんなに将兵は死んでいません。
それも孔明の「武装率を上げて命を大事に政策」が反映されているのでしょう。
少ない人口を戦争ですり減らすわけにはいかないという事情も
武装率を上昇させる理由にはなったでしょうね。
三国志のアパッチ野球軍 呉の武装率が低い理由は?
逆に武装率が一番低いのは呉でした。
呉において精鋭部隊だった丹陽青巾兵は鎧を着けずに盾と刀で武装し
頭には青い巾を巻いた兵士です。
さすがはワイルド呉「鎧なんかいらねえ、矢は精神力で跳ね返す」のかと思いきや
呉で武装率が低いのは水上戦が多いからであるようです。
船の上では身軽である必要があり、重い鎧をつけて戦い水に落ちたら
溺死する確率が高まるので防御は盾で行っていました。
しかし、片手を盾に取られるので、小回りが利かない
船上の戦いは大変だったようです。
やっぱり、矢なんか精神力で跳ね返すというド根性の人が
呉には多かったような気がします。
元々は、バーサーカーのような楚人がいた土地なので・・
三国志ライターkawausoの独り言
知られざる三国志の時代の武装率について書いてみました。
こうしてみると、三国鼎立の頃までは、兵士は武器以外は、
着の身着のまま、敗残兵から鎧を奪って身に着けるのが、
精々だったような感じがしますね。
ちょっとでも矢が当たれば重傷になる、ほとんど裸状態、
この時代の兵士にはなりたくないですね。