【悲報】孔明の発明品で戦死した人物が実在した。鎧を過信した南朝宋の軍人・殷孝祖

2015年11月12日


孔明 出師

 

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)と言えば、消極的ととられがちな程に用兵には慎重な人です。

孔明は、もう少し頑張れそうでも不安があれば兵を引いて被害を抑える事に心を砕きました。

そればかりではなく、孔明は鎧なども工夫を施して、より防御力の高い鎧を発明したと伝承では伝えられています。

孔明が発明した、より防御力の高い鎧とはどういうものだったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孔明指令 命を大切に!を実践した鎧とは?

孔明 墨者

 

孔明が当時の上流階級の人間としては珍しく技術者を尊重したというのは、

実は孔明は墨者(ぼくしゃ)だった!?意外すぎる6つの理由)という記事でも書きました。

そんな孔明は圧倒的に数で優勢な魏に対抗しようと槍の前身となる点鋼矛(てんごうぼう)という武器や、

古代のマシンガンである矢の自動発射装置、元戎(げんじゅう)などを発明しますが、武器ばかりではなく、鎧にも考慮を払っています。

それが筩袖鎧(とうしゅうがい)という上半身を覆う鎧です。

 

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弱点である脇の下を覆った筩袖鎧

筩袖鎧 引用

 

筩袖鎧は、鉄の札を繋ぎ合せた鎧ですが従来の鉄鎧は肩当ての部分と

胴の鎧が分離していて、脇の下がガラ空きになっていました。

これだと、矛や戟を振り上げた瞬間に脇下が空き、そこを刺されてしまいます。

脇下は皮膚が薄く、心臓に近いので、ここを刺されると即死する可能性があります。

 

そこで、孔明が兵士の命を守るべく開発したのが筩袖鎧だと言われています。

 

(イラスト出典元:中国铠甲道具制造商)

 

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筩袖鎧が従来の鎧とは何が違うの?

筩袖鎧

筩袖鎧が従来の鎧とどう違うのかと言うと、これは、袖の部分までが、

鉄の札で覆われていて、胴鎧と肩当てが一体化しているのです。

 

これにより筩袖鎧を装備するものは、急所である脇下まで完全に鎧で覆われて

死亡率を下げる事が出来ます。

また、この筩袖鎧は、鉄兜と一緒になっていたようです。

 

(イラスト出典元:http://lancelot.servehttp.com/

 

 

技術者孔明の意図

孔明 出師

 

強力な武器を造り上げた孔明は、やがて、この武器を模倣して、敵も武器を

強化するのを見越して、防御力を強化する為に筩袖鎧を発明したのかも知れません。

袖の部分までを鉄の札で覆うのは簡単そうですが、当時の技術では難しい部分があり

それを改良して、欠点を克服した孔明は、やはり軍事技術というものに、

並々ならぬ関心を持っていたと言えるでしょう。

 

ただ、筩袖鎧は製造に手間がかかる為に値段が高く、一般の兵士までに

行き渡るという所まではいかなかったようです。

 

 

 

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悲報!孔明の筩袖鎧で戦死した殷孝祖(いんこうそ)

孔明 劉備の剣とハンコ

 

孔明の発明した筩袖鎧は、二十五石という強い弩の力でも射抜けないという

強い防御力を持っていました。

その為に孔明が没してから200年以上経った南北朝の時代でも用いられています。

南北朝の時代に、宋の殷孝祖(415~466年)は皇帝の窮地に駆けつけた功績を

賞賛され、この孔明の筩袖鎧帽を与えられます。

 

※帽とは鉄兜の事だと思われる。

 

調子づいた殷孝祖は前線に出るが・・・・

孫堅逝く

 

しかし、これに調子づいた殷孝祖は、周囲の人間が止めるのも聞かず、

いたずらに前線に出て敵の弓兵の集中攻撃を受けてしまいます。

この攻撃でハリネズミになってしまった殷孝祖は、戦死してしまうのです。

 

いかに孔明の安全設計の鎧でも、弓兵の集中攻撃を受けてしまっては、

鎧にも傷がつき、矢も通ってしまうでしょう。

 

このように鎧の性能を過信した殷孝祖は皮肉にも、その事で命を落として

しまう結果になったのでした。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

それにしても、孔明の設計の根底にある命を大切に思考は徹底しています。

ただ、兵を指揮しているだけでは、気づいても優先順位を下げてしまう。

無防備な脇の下をそのままにしないで、筒袖状に鉄の札を編んでカバーする

そこに、多くない蜀の人的資源を失うまいとする孔明の考えが見えてくる

そのように思えます。

 

今日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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