プチャーチンと川路聖謨二人の外交官の友情と打算


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ペリーの浦賀(うらが)来航の1ヵ月後、ロシアのプチャーチンが長崎に来航します。

ペリー来航を知ったロシアが海軍中将であるプチャーチンを全権使節として派遣したのです。

ロシアの目的は通商と日露間の国境の決定でした。

これに対応した幕府側の交接係(交渉担当者)のひとりが川路聖謨(かわじとしあきら)です。いわゆる外交官です。

今回は、ロシアと日本の外交交渉と、プチャーチンと川路聖謨のふたりの関係について調べてみました。

 

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プチャーチンと川路聖謨対照的な二人の生い立ち

 

川路聖謨は豊後(ぶんご)(現在の大分県)の代官所に勤務する下級役人の家に生まれました。

相当に貧しい生活の中でも両親の厳しい教育を受け育ったと本人は回顧(かいこ)しています。

実父である内藤吉兵衛(ないとうきちちべい)は、息子・川路聖謨を小普請組(こぶしんぐみ)の川路三右衛門(さんえもん)の養子とします。

彼が12歳のときでした。

 

小普請組とは 3000石以下の御家人、旗本で無役の者の集まりで、

直参(じきさん)ではありますが下級武士です。

そのような身分から川路聖謨は、たたき上げともいっていい経歴で

江戸幕府の中をのし上がって生きます。

 

勘定奉行所の下級吏員資格試験に合格し幕府の下級官吏となり、

出石藩のお家騒動「仙石騒動」を裁定したことで出世街道に乗っていきます。

 

一方、交渉相手となったプチャーチンは貴族の出身です。

ロシアの海軍士官学校を卒業し多くの海戦に参加し功績を挙げ、

またガージャール朝ペルシアとの交易権、漁業権交渉なども成功させるなど、

対外交渉でも実績を積み上げロシアの遣日全権使節として、長崎へやってきたのです。

 

貧しい身から叩き上げで出世してきた川路聖謨と、

貴族出身で海軍士官学校卒業というエリート街道を走り実績を積み重ねてきた

プチャーチンと生い立ちが対照的なふたりが日露の外交交渉に当たることになります。


長崎で交渉する事になったプチャーチンと川路聖謨

 

長崎で交渉を開始した川路聖謨とプチャーチンですが、

川路聖謨は幕府からとにかくズルズルと話を引き伸ばせと指示されていました。

プチャーチンは国境について、樺太(からふと)の全土領有、択捉島(えとろふとう)の折半という提案をしてきます。

これに対し日本の回答は樺太は北緯50度を国境とすること、

千島列島全土の領有を主張します。

 

通商に関して川路聖謨は「国の益になりもうさぬ」として、拒否を続けます。

川路聖謨は幕府の指示に従い、のらりくらりとジョークを交え、

ロシアという国に対し日本が友好的な感情を持っていることを繰り返します。

実際、幕府の対露感情は比較的友好的なものだったのです。

 

通商に関しては、川路が他国に対し日本が他国と通商を始める場合、

ロシアとも通商すると繰り返します。

同時に交渉していた、アメリカとの交渉で、絶対に通商条約を結ばないと

上司から伝えられていたため、川路はロシアに対しこの言葉を繰り返します。

結果、署名なしとはいえ日本が他国と通商を開始した場合、

ロシアにも最恵国待遇を与えるという覚書を渡してしまいます。

 

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安政の大地震を契機に交流を深めるプチャーチンと川路

 

クリミア戦争の発生で、プチャーチンは沿海州(えんかいしゅう)に退去し、交渉は中断します。

この間、幕府はヨーロッパ情勢をかなり正しく認識し、

日本は「弱国」であるという認識の元、列強との等距離外交を展開する方針となります。

プチャーチンと川路聖謨の交渉は下田で再開されますが、

すでに日本はアメリカに対し開国していたため、

ロシアに対しても日露和親条約(にちろわしんじょうやく)が結ばれることになります。

覚書まで交わしていましたので条約を結ばざるを得ません。

 

この交渉再開直後に、安政大地震による津波が下田を襲いました。

プチャーチンは津波で溺れる日本人をロシア船・ディアナ号で救出しますが、

この船も津波に耐え切れず大破してしまいます。

川路聖謨はロシア人の救援活動に感謝し、またプチャーチンは

ロシア人造船技術者の指導の下で、新しい船の建造を始めます。

プチャーチンは川路のこの態度に感謝しました。

このときに日露は安政の大地震で発生した津波を契機に、交流を深めていったのです。

 

ロシアの文豪ゴンチャロフが遺した川路聖謨の印象

 

ロシア側は川路聖謨の人格にかなり惹かれていました。

写真を撮るというロシアの提案に対し、

自分のようなアバタ面のブサイクな顔を日本人の代表として撮影されたら困る

というジョークでロシア側を笑わせています。

 

この川路聖謨の印象を、プチャーチンに随行していたロシアの文豪イワン・ゴンチャロフは、

「非常に聡明であり、弁術も知性があり尊敬しないわけにはいかない人物であったとしています。」

そして、ロシア側は川路をかなり気に入っていたとも書いています。

川路聖謨はロシアから見ても優秀で隙の無い手ごわい交渉能力を持った外交官であるとされながら、

その人柄に関しては最上級に評価されています。

 

日露合作「ヘダ号」造船の裏にあった川路の狡猾(こうかつ)さとは?

 

安政の大地震による津波で大破したディアナ号の代わりに、

日本の船大工がプチャーチンに同行していたロシア人造船技術者の指導の下に建造したのがヘダ号です。

プチャーチンはこの川路聖謨の対応に痛く感動します。

しかし、川路聖謨は善意だけで、ヘダ号の建造を行ったわけではなかったのです。

 

ロシア人造船技術者の指導を受けながら、船大工にはロシアの造船技術を盗むように指示をしていました。

木造洋式スクーネル船ヘダ号は日本で建造された始めての洋式船となり、その技術導入の開始となります。

このあたり、温厚なだけではなく有能で狡猾(こうかつ)な外交官としての川路聖謨の能力が垣間見えます。

 

今も残る北方領土問題の原点は幕末にあった

 

日露和親条約の交渉において、国境の問題はどのような決着を見たのでしょうか。

川路聖謨はアイヌ人は日本の支配下にあり、アイヌ居住地は日本の領有権があると主張します。

これに対しプチャーチンは一考にせず、日本の領有権を認めませんでした。

結果として、択捉島とウルップ島の間に国境線を引き、

樺太の領有権は今までどおりあいまいなままとします。

 

ただこのとき千島列島の範囲を明確に定義しなかったことが、

太平洋戦争後のサンフランシスコ講和条約における「千島列島の放棄」という部分で

北方4島を「千島列島」に含むのかどうかという部分が争点となり、

今の北方領土問題につながってしまうことになります。


自由貿易は善か?プチャーチンに反論した川路の先見性

 

プチャーチンはロシアのガラス、カムチャッカの魚と日本の塩を交易すれば、

両方とも安いものを入手できて利益となると具体的に説明をしてきます。

自由貿易における利点を強調するときに使われる論をプチャーチンは展開したのです。

しかし、川路聖謨は、ロシア側から贈られた月齢を示す装置と、

寒暖計(かんだんけい)の付いた天文時計を例に挙げ、

このようなものが日本に入ってきたら日本の富を失ってしまい

素っ裸になってしまうと冗談を交え反論しました。

 

川路聖謨は、自由貿易によって、先進国と後発国が自由貿易を行った場合、

後発国の国内産業が壊滅的な打撃を受け、国益を損なうことを承知していました。

それを冗談交じりに説明し反論したのです。川路聖謨の冗談交じりの反論にロシア人は笑い、

川路は今回の話は笑ったところで打ち切るのがいいでしょうと、話を切り上げてしまうのです。

この川路の交渉力をプチャーチンは高く評価しています。


  

 

領事裁判権が双務的になった日露通好条約

 

日露和親条約(にちろわしんじょうやく)は、日露通好条約(にちろつうこうじょうやく)とも呼ばれ、

条約により函館(はこだて)、下田、長崎を開港し、ロシアの領事を日本に駐在させるなどの部分は、

日米和親条約と同じでした。

しかし、日露通好条約では、領事裁判権(りょうじさいばんけん)を双務に規定するとした点で、

米英と結んだ条約とは大きく異なっています。

このときの条約では最恵国待遇は、片務的でしたが、

その後に結ばれた日露修好通商条約で双務的なものとなりました。

 

幕末ライター夜食の独り言

 

江戸幕府は外国との交渉において外交能力が低く、

後手後手で翻弄されっぱなしであったとする評価が広く浸透していましたが、

最近になりその部分が見直されるようになっています。

江戸幕府は対外情報を収集し分析し、日本を「弱国」であると認め、

そこから日本が生き延びていくにはどうすればいいのかの対策を練り上げていきます。

 

その中で、川路聖謨は優秀な外交官のひとりであり、その功績は非常に大きいものです。

決して日本は対外交渉で外国の言いなりになったわけではなく、「弱国」という立場を認識しつつも、

(ねば)り強い交渉を行い、望みうる限界に近い成果を上げていました。

 

幕末の江戸幕府の対外外交は決して弱腰ではなかったのですが、

幕藩体制の中では日本が「弱国」であるという認識を共有できなかった部分が、

攘夷運動を抑えこめず、幕府の権威を失墜させていく一因になったのではないでしょうか。

江戸幕府は川路聖謨のように優秀な人材を抱えていましたが、

組織としては近代的国家に対応できる形になっていなかったのも事実なのです。

 

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