若き日からの盟友、西郷隆盛を西南戦争で死に追いやって8か月後、
大久保利通もまた、紀尾井坂で島田一郎等の襲撃を受け滅多斬りの末に亡くなります。
イメージに合わないですが、大久保には正妻の満寿子と愛人のおゆうの間に
八男一女の子供がいるなかなかの艶福家でした。
では、この八男一女は、大久保利通の死後、どんな人生を送ったのでしょう?
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この記事の目次
昭和まで生きた長男、大久保利和は鉄道マニア
大久保利和は1859年、正妻の満寿子と利通の間に長男として誕生しました。
明治4年、1871年岩倉遣欧使節の随員としてアメリカ、フィラデルフィアの中学で学び
1874年に帰国して開成学校に入学しています。
父利通が紀尾井坂の変に倒れると、1878年に華族に列して大久保侯爵家の当主になり
大蔵官僚として任官し、帝国議会の設立後は貴族院侯爵議員になります。
鉄道事業に関心があり、岩倉具視と日本初の私鉄の日本鉄道を設立し、
甲武鉄道の副社長、社長などを勤めています。
昭和20年、1月20日、86歳という長寿で大往生しました。
大臣を歴任元老として昭和天皇の信頼も厚かった次男 牧野伸顕
(画像:牧野伸顕Wikipedia)
牧野伸顕は、1861年、正妻の満寿子と利通の間に誕生しました。
生後すぐに、大久保利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子に入りますが
養父の吉之丞は北越戦争で戦死してしまったので苗字はそのままで
大久保家に戻っています。
兄と共に岩倉遣欧使節団の随員となり、フィラデルフィアの中学で学び、
1874年に帰国し開成学校に入学1880年途中で中退し外務省に入りました。
以後、外務官僚として、ポストを歴任し、外務大臣、農商務大臣、文部大臣、
内大臣、宮内大臣、枢密顧問官等を歴任します。
外国生活が長いオールドリベラリストとして、
明治、大正、昭和と日本政治に重きをなし、昭和に入ってからは元老として
後継首相の選任にも関与し、昭和天皇の信任も厚く戦争中も度々相談を受けています。
親英米派でリベラリストである為、急進的な右翼や軍部に憎まれる事になり、
2・26事件で襲撃され、九死に一生を得たりしています。
1949年、1月25日、87歳の長寿を全うしました
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内務官僚、貴族院議員、三男 大久保利武
(画像:大久保利武Wikipedia)
大久保利武は1865年(慶応元年)に満寿子と利通の間に生まれました。
1887年、第一高等中学を卒業後、アメリカ合衆国に留学イエール大学を卒業後
ドイツに留学して、ベルリン大学等で学びます。
1894年に帰国、日清戦争で大本営付きの通訳官を務め後に台湾総督秘書官
1896年から内務省に入省し内務大臣秘書官に就任します。
1900年に鳥取県知事になったのを皮切りに各地の知事を歴任し
農商務省、商工局長を務めたほか、1917年からは貴族院勅選議員を務めました。
長男の利和に息子が無かった為に、利和の養子になり昭和3年
利和の隠居に伴い、大久保の家督を相続し自身も侯爵となります。
1943年、78歳で死去しています。
愛人おゆうとの間に生まれた四男 大久保利夫
大久保利夫は、1867年大久保が京都で活動していた時代に妾のおゆうとの間に生まれます。
利夫は海軍軍人を志しましたが、1894年、明治27年、27歳で病死しました。
四男利夫と六男駿熊は長命な利通の子供の中では短命な方であるようです。
石原家の養子に入った五男 大久保雄熊
大久保雄熊は、正妻の満寿子と利通の間に1869年に誕生しました。
石原家の養子に入り、名も石原雄熊となったせいか目立った情報は確認できません。
1943年、74歳で死去しているようです。
父の殖産興業の夢を継ぐ六男 大久保駿熊
大久保駿熊は、妾のおゆうと大久保利通の間に1870年に生まれます。
父が紀尾井坂で暗殺された時には、まだ8歳でした。
異母兄達が政治や実業、外交で頭角を現したのに対して駿熊は、
大久保利通が熱心に研究していた農業面で頭角を現します。
帝国大学農学部を卒業して、鳥取県農学校の教師になり、
明治33年には、愛知県農業試験場兼技師になって、
農業技術の振興に当たります。
明治37年には、さらに農業技術を研究する目的で海外留学し
養鶏や製糖業などを研究して帰国しました。
東京生まれの駿熊は大島糖業試験場長として、鹿児島の製糖業の
振興を期待されましたが1912年明治45年、42歳の若さで病死します。
子供はいなかったようです。
駿熊は父に似て寡黙で、また温厚な性格でしたが発言する時の語気は鋭く
周囲を屈伏させる力があったと言われます。
兄と共に殖産興業に従事、七男 大久保七熊
大久保七熊は、おゆうと利通の間に1871年、明治4年に誕生しました。
その生涯の詳細は不明ですが、一歳違いの兄、駿熊と共に農学者になり、
殖産興業の振興に努めたそうです。
兄よりは長命で、1943年、72歳の天寿を全うしています。
大久保利通の死後に誕生、義父もテロに倒れた八男 大久保利賢
大久保利賢は、妾のおゆうと利通との間に1878年の10月に生まれます。
生まれる5か月前に実父の利通は紀尾井坂の変で暗殺されました。
大久保利通の子の中で利賢だけが父の面影を知らない事になります。
利賢はかなり優秀な人物で旧制一高から帝国大学に入り、卒業後
1903年明治36年には横浜正金銀行に入ります。
そこからは銀行ひとすじに勤めあげ、1911年には東京支店副支配人
1918年にはロンドン支店支配人を務め、1923年には本店支配人になりました。
利賢の妻は明治日本屈指の財政家、高橋是清の次女和喜子でした。
1936年、昭和11年、利賢は取締役、副頭取を経て、頭取になりましたが
同年の2月26日、義父の高橋是清は昭和維新を標榜する青年将校の
クーデターにより殺害されます、世に言う2.26事件です。
奇しくも、利賢は実父と義父の二人をテロで失うという体験をしたのです。
利賢は戦中を生き抜き、1958年、昭和33年、80歳で亡くなります。
大久保利通ただ一人の女児 大久保芳子
大久保利通の九人の子の中で唯一の女児が大久保芳子です。
彼女は、正妻の満寿子と利通との間に1876年に生まれました。
子煩悩の大久保は、唯一の女児の芳子を大変に可愛がり、
出勤前の10分から15分芳子を抱き上げてあやすのを
何よりの楽しみにしていたようです。
事件の当日、普段はニコニコとしている芳子が、
大久保が抱くと火がついたように泣き出しました。
大久保は困惑しつつも馬車に乗り込みますが、その直後、
紀尾井坂で暗殺者に襲われて惨死しました。
もしかすると、父の異変を感じた芳子の虫の知らせだったかも知れません。
ただそれは活かされず、芳子は1歳余りで父無し子になります。
芳子は成長してから同郷の伊集院彦吉の妻になります。
伊集院彦吉は、外務官僚として中国天津に赴任、豪放磊落な性格もあり
伊集院公使とあだ名される程に影響力が強い人でした。
軍閥の袁世凱やその腹心の唐紹義と親交があり、外交的な失策から
公使を辞任しようとしますが、
「君に辞められると時局に重大な影響が出る」と外務大臣が
辞任を認めなかったそうです。
芳子は大久保の子供達の中でも最も長生きし1965年、昭和40年
89歳の長寿で大往生しています。
幕末ライターkawausoの独り言
大久保利通の九人の子供達について紹介しました。
もっとも目立つのは、元老にまでなった牧野伸顕ですが、
それ以外の兄弟も、銀行家、外交官、農学者、鉄道会社社長と
父の才能を受け継いで、それぞれの分野で活躍しています。
また、四男の利夫と六男の駿熊以外は、皆70歳を越えて
長生きしているのも特徴ですね。
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