大久保の死は自業自得だった!政治を私物化した男の最期


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盟友、西郷隆盛(さいごうたかもり)西南戦争(せいなんせんそう)(ほうむ)ってから、僅か7か月の後、明治政府の権力の頂点に立った大久保利通(おおくぼとしみち)は石川県の士族、

島田一郎(しまだいちろう)等により紀尾井坂で襲撃され無残な最期を遂げました。

しかし、この紀尾井坂の変、主犯格の石川等の私怨により大久保がとばっちりで殺されたかのように後世に伝わり、矮小化(わいしょうか)されてしまう事が

多いのです。

ところがそれは大間違いで、島田一郎の斬奸状(ざんかんじょう)には明確に大久保が狙われた事とその理由が赤裸々に綴られていたのです。

 

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政治を私物化した大久保に対する罪状

大久保利通

 

島田一郎は、テロに至る前に斬奸状を作成し各新聞社に送っていました。

しかし、今も昔も権力に弱い新聞社は怖れて掲載せず、ただ一社、朝野新聞(ちょうやしんぶん)だけが斬奸状の内容を手短に掲載して、即日発行中止になっています。

斬奸状によると大久保を斬った理由は以下の五か条でした。

 

  • 議会を開かず民権を抑圧し、政治を専制独裁した罪

  • 法令を乱用し私利私欲を横行させた罪

  • 不急の工事、無用の修飾により国財を浪費した罪

  • 忠節、憂国の士を排斥し内乱を起こした罪

  • 外交を誤り国権を失墜させた罪

 

元々、テロ実行犯の島田一郎は、征韓論者(せいかんろんしゃ)であると同時に急進的な民権論者で戊辰戦争(ぼしんせんそう)で手柄を立てて軍人として順調に出世した人物でしたが、

征韓論争で西郷隆盛の下野に同調して軍人を辞めた人でした。

彼は決して維新に乗り遅れた人物ではなく、むしろ勝ち組に属していました。

ここから見ても、明治維新で特権を失い自暴自棄になったステロタイプな不平士族が私怨で大久保を斬ったのではない事は明らかです。


さらに続く暗殺すべき政府要人のリスト

大久保利通のダークサイド

 

斬奸状には、大久保だけではなく、当時の明治政府の官僚の名前が、連ねられていました。

筆頭は木戸孝允(きどたかよし)であり、二番目が大久保利通、岩倉具視(いわくらともみ)大隈重信(おおくましげのぶ)伊藤博文(いとうひろぶみ)黒田清隆(くろだきよたか)川路利良(かわじとしなが)とズラズラと

大物が名を連ねています。

彼らは、いずれも権力の横車で政治を私物化し反対者を弾圧した人々であり当時から非常に評判の悪い人物ばかりでした。

 

木戸と言うと明治時代のリベラルな民権家のように伝わりますが、実際は、長州閥の子分の醜聞を揉み消す為に露骨に政治圧力をかける男で、

島田等は斬殺の筆頭に挙げていましたが、西南戦争の前に病死していたので、二番手の大久保利通に標的を変更したのです。

 

【攘夷魂!テロに走ったサムライ達】
俺達尊攘派

 

酒乱で妻を斬り殺した黒田清隆の罪を隠ぺいした大久保利通

大久保利通

 

大久保を清廉(せいれん)な独裁者と称える人は多いですが、それは虚像というモノでした。

例えば、斬奸状の二の法令を乱用し私利私欲を横行させた罪では、酒乱の黒田清隆(くろだきよたか)が泥酔して妻を斬殺した事件を大久保が

子分の大警視(だいけいし)、川路利良に命じ検死記録まで捏造(ねつぞう)させて事件を無かった事にしています。

明治維新

 

法治国家の原則に照らせば、誰が殺人を犯そうと逮捕され裁判を受けるべきですが大久保は黒田が薩摩閥という理由で法治主義を捻じ曲げ、

罪を無かった事にしたのです。

 

黒田清隆がどんなに有能であろうと、人一人殺して刑罰も受けないなどとは、大久保が政治を私物化した罪は免れないでしょう。

彼は決して清廉な独裁者という美名を冠される存在ではなかったのです。


空前の無駄遣い岩倉遣欧使節

黒船

 

発足したばかりの維新政府はないない尽くしの窮乏(きゅうぼう)を極めていました。

その為に地租を上げて、農民からさらに税金を巻き上げようとした程です。

それでも血税が国家の発展に使用されればやむを得ないでしょうが、明治政府は、何の名目があるかも不明な二年の外遊で55億円という巨額を

蕩尽して、実績何もなしという醜態を晒しています。

明治四年から六年にかけて行われた岩倉遣欧使節(いわくらけんおうしせつ)です。

 

元々、遣欧使節団は、大隈重信が提案したもので規模も数人という小規模なものですが、それを見た大久保は良いアイデアだと

右大臣の岩倉を抱き込んで換骨奪胎(かんこつだったい)しました。

木戸孝允

 

そして、随員100名以上という規模に膨れた遣欧使節は、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文のような政府の実務家を加えて、問題山積の国内を

留守政府に押し付けて出発したのです。

よく言われる岩倉遣欧使節は条約改正の為の使節団というのは、全くの後付けで、元々、使節団は国際親善と条約改正の下準備の目的だけだったのを

功績を焦った大久保と伊藤がアメリカで独自に条約改正交渉を始めたのです。

天皇

 

ところが親善使節である彼らは条約改正に必要な天皇の委任状を持たず大久保と伊藤は東京へトンボ返り、その間、使節団は身動きが取れずに

4か月間も足止めされ、しかも条約改正交渉は失敗しました。

 

さらにこれにより、スケジュールが狂った使節団は10か月で帰る予定を20か月に延長し莫大な無駄遣いだけをして帰国したのです。

 

明かな国費の無駄遣いですが、岩倉使節団は誰一人として責任を取りませんでした。

もちろん、当時はそれを追求するような議会も存在しなかったのです。

斬奸状の三、不急の工事、無用の修飾により国財を浪費した罪とは明確にその事を告発していました。


  

 

征韓論を潰しながら征韓をやった大久保の悪辣

黒船

 

教科書などでは、大久保や岩倉のような外遊組は現在は国内政治を優先すべきで朝鮮に使節を送ったり、戦争をする時ではないとして

西郷隆盛を朝鮮に送る許可を潰したとされています。

しかし、それも一面的な話で、そんな大久保は明治8年には江華島事件(こうかとうじけん)を起こし砲艦外交を行い李氏朝鮮(りしちょうせん)と不平等条約を結んでいます。

どうして、一度は潰した征韓論を大久保が実行したのか?

それは、大久保が西洋列強にお(うかが)いを立て、日本が李氏朝鮮と不平等条約を結んでも干渉しないという約束を得たからです。

 

これは、現在から見て、あまりに悪辣(あくらつ)なやり方だと言えます。

外国が反対しなければ武力で他国を開国させてもOKでは、李氏朝鮮の面子など少しも尊重していません。

西郷隆盛

 

そもそも、西郷の征韓論は、武器を帯びずに烏帽子直垂(えぼしひたたれ)で正装し、軍艦も使わずに商業船でソウルに乗り込んで開国を促すものです。

最初から砲艦外交ありきの大久保路線は、西郷の征韓論に比べて、悪手も悪手だったのです。

 

斬奸状五、外交を誤り国権を失墜させた罪とは、これでした。

 

汚職とは金銭だけの話ではない

大久保利通

 

大久保は金銭に淡泊であり、むしろ借金までして国費を穴埋めした事で知られそれを持って清廉な政治家と言われています。

しかし、汚職とは何も金銭の受け取りだけではありません。

裁かれるべき人間を(かば)い罪を揉み消すのも、不要不急な大事業で国費を蕩尽するのも汚職に違いはないのです。

 

 

大久保は、明治政府で自身の権力を不動にする為に配下の大警視、川路利良(かわじとしよし)を使い全国の反政府勢力を弾圧する包囲網を作り上げました。

特に大久保は司法卿江藤新平(えとうしんぺい)を憎悪し、佐賀の乱は最初から江藤を追い詰めるつもりで大久保が起こしたという考えが今では支配的で、

佐賀の乱は佐賀の役、或いは佐賀戦争とすべきだとする意見もあります。

 

また讒謗律(ざんぽうりつ)を制定して官僚の批判を禁止、破ると禁錮刑(きんこけい)に処したり、新聞条例を作って政府の検閲を得ない新聞は発行停止に出来るとしました。

まるで北の将軍様や、中華人民共和国の言論統制だったのです。

今も昔もマスコミは玉石混交(ぎょくせきこんこう)で、くだらないスキャンダル追及も多いですがそれでも国民が知るべき政治の腐敗や汚職も告発する大事な機関です。

これを雁字搦(がんじがら)めにしてしまう大久保は、果たして清廉な独裁者でしょうか?

余りにも狭量で、自己正当化に満ちたエゴしか感じません。

 

斬奸状四、忠節、憂国の士を排斥し内乱を起こした罪とは、政治への批判を許さず、非合法な方法で政敵を葬る大久保への告発です。

 

大久保の暗殺で鎮静化した自由民権運動に火がついた

大久保利通

 

大久保利通の暗殺は西南戦争の敗北で下火になっていた打倒藩閥政治の運動を再び、燃え上がらせました。

 

西南戦争で西郷軍に与し、生き残った民権論者はこれを契機に武器を捨て言論を武器として藩閥政府と戦う方法にスイッチしたのです。

明治政府も第二、第三の要人暗殺を警戒して民権勢力と妥協せざるを得ず、それが明治十四年の政変に繋がり、9年後の国会開設に繋がるのです。

 

島田一郎等、六名の暗殺者がそこまで考えたわけではありませんが紀尾井坂の変は、反政府運動が武力闘争から言論の戦いに切り替わる

ブリッジの役割を果たした事件だったのです。

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

明治六年の政変後の大久保利通は、安政の大獄を起こした井伊直弼(いいなおすけ)に似ています。

どちらも人気はありませんが、やった方向性は正しかったのだと(かば)われます。

 

しかし、本当にそうでしょうか?井伊直弼の条約調印は100歩譲って正しくても幕府を批判する尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士を片っ端から捕まえて処刑する

暴虐(ぼうぎゃく)が正当化されるでしょうか?

大久保利通が粉骨砕身して近代日本の建設に尽力したのは否定しません。

しかし、だからと言って、大久保路線に異を唱える人々を罠にかけて処断し政治腐敗を国民に伝える新聞マスコミを法律で雁字搦めにしてまで、

それを強行してもいいのでしょうか?

 

明治維新の大義だった五か条の御誓文の最初は広ク會議(かいぎ)(おこ)萬機公論(ばんきこうろん)ニ決スベシでした。

 

これは議会を起こして、大事な事は国民で話し合えという意味です。

それを無視して、維新から三十年は自分が国家を導くと己惚れた大久保を国民は本当に三十年間放置すべきだったのでしょうか?

井伊直弼が桜田門外で暗殺されなければ、確実に明治維新を起こす志士の多くが獄に下されて維新は遅れたでしょう。

同様に、大久保が暗殺されず独裁が何十年も継続したなら、日本の立憲政治はずっと遅れていたのではないかと思うのです。

 

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