【有名になりたい】小粒群雄太史慈が孫策に出会うまでを紹介

2018年6月11日


 

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太史慈

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

太史慈(たいしじ)孫策(そんさく)と史実でも一騎打ちをした程の

剛の者として知られます。

また、孫策に仕えてからは、元々の配下であった劉繇(りゅうよう)の勢力を呼び戻して

孫策軍に吸収したり人望もあり義理堅い人物のイメージです。

ところが真実の太史慈は、そんな英雄の人望とセコイ性格が同居した

かなり小粒感がある人物でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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郡太守の命令で州刺史の使者を追いかける太史慈

太史慈

 

太史慈は字を子義(しぎ)といい青州東萊黄(せいしゅうとうらいおう)の出身でした。

若い頃から学問が好きで郡の試験にパスして曹奏史(そうそうし)という仕事に就きます。

太史慈が仕官した頃、青州では東菜(とうさい)郡守と州刺史(しし)との関係が

険悪でした。

 

そこで、何か問題が起きると、郡太守と州刺史は争って洛陽に使者を出し

最初に奏章(そうしょう)(公文書)を受理された側の意見が通るという有様でした。

 

太史慈が21歳の時、また郡太守と州刺史の間でトラブルが持ち上がります。

しかし、使者を出すのは州刺史が一足早く、郡太守は大慌てになります。

 

「誰か刺史を出し抜いてくれる者はおらんのか!」

そこで出世のチャンスと思った太史慈は手を挙げて、大急ぎで州刺史の

後を追い、洛陽に向かうのです。

 



嘘に嘘を塗り重ね、州刺史の使者を騙す太史慈

太史慈

 

急ぎに急いだ甲斐があり、太史慈はまさに役所に奏章を出そうとしている

州刺史の使者に間に合いました。

すると太史慈は、赤の他人のような顔をして使者に近づきます。

 

太史慈「君、君、もしかして奏章を出そうとしているのかい?」

 

使者「そうだけど、それがどうかしたの?」

 

太史慈「最近、奏章の不備が多くて、礼を失するケースが多いらしいよ

出してから間違いに気づいても遅いから確認してみたら?」

 

使者は太史慈が郡太守の使者とは夢にも思わず、親切な人だなと思いつつ

馬車から奏章を取り出して太史慈の前で開きます。

太史慈

 

太史慈「かかったな!隙ありー!」

 

太史慈はすかさず懐から刀を取り出すと、奏章を奪い取り竹簡の紐を斬り

バラバラに破壊してしまいました。

 

もちろん、使者はカンカンです、こいつが私の公文書を破壊したと

大声で騒ぎまわります。

すると、太史慈は使者の手を引っ張って馬車の陰に隠れました。

 

使者「何をする!今さら謝っても許さんぞ」

 

太史慈「まぁ怒るな!冷静になってよく考えて見ろ、

君が奏章を持って来なければ、私が奏章を破壊する事も無かったのだ!(そうか?)

これは、因果は、あざなえる縄の如しと言うもので、(無茶苦茶だ)

僕だけが罰せられる事はない、きっと君も同罪だぞ!(脅しかよ)

今、取りうる最善の方法は、お互いに任務を放棄して逃げる事ではないか?

そうすれば、きっと命を全うできるだろう」

 

使者「それはおかしい、君は奏章を壊すという任務を全うしたではないか?

なぜ私と逃げようと言うのだ」

 

太史慈「実は、私は州刺史から奏章が役所に届けられたかを見届けるように

命令を受けただけだ、しかし、逆上してつい、奏章まで破壊してしまった

これで郡に帰っても余計な事をした事で罰を受けるだろう」

 

使者は、太史慈の言い分に納得し、二人で連れ立って洛陽城を出ました。

 

太史慈の裏切り、一人だけ舞い戻り郡の奏章を提出

太史慈

 

しかし、太史慈は一度、洛陽城から出るとプイっと使者をまいて、

一人だけ洛陽に舞い戻り、持ってきていた郡太守の奏章を役所に出します。

そう、使者に説明した事はすべて嘘で口から出まかせだったのです。

 

ちょっと人格を疑うレベルの嘘の上塗りで、見事に州刺史を出し抜いた太史慈は、

郡太守に評価され、その知名度は大いに高まります。

太史慈

 

ですが、悪質な嘘の上塗りで騙された州刺史は太史慈を恨みまくり、

これを殺そうと刺客を派遣する程になり、故郷にいづらくなった太史慈は、

遼東(りょうとう)に逃げてしまうのです。

 

確かに計略と言えば計略ですが、余りにセコイ嘘の上塗りです。

こんな姑息(こそく)な事で名を挙げたのでは、そりゃ恨まれるでしょう。

 

孔融の恩義を返す為に計略を使い劉備の援軍を引きだす

孔融の恩義を返す太史慈

 

遼東に逃れたものの、太史慈が心配するのは故郷に残した老母の事です。

自業自得ではあるのですが、州刺史にひどい目に遭わされていないかと

心配する事しきり、ですが遠く離れては安否も分かりません。

孔融

 

それを聞いた北海相の孔融(こうゆう)は親孝行だと感心し、

老母の安否を知らせたり丁重な贈物をしたりしました。

ほとぼりが冷めると、太史慈は故郷に帰りますが、今度は

黄巾賊の残党の管亥(かんがい)が、孔融を都昌に包囲するという事態になりました。

黄巾賊

 

老母は太史慈に「今こそ孔府君の恩義を返す時」と勧め、太史慈もその通りだと

徒歩で夜陰に乗じて黄巾賊の包囲を破り都昌城に入ります。

 

孔融は太史慈の来訪を喜びますが、太史慈が兵を繰り出して黄巾賊の包囲を

打ち崩すべしと進言しても、難色を示し援軍を待つと言うばかりでした。

学者の孔融は戦争の指揮はドヘタくそでそんな日々が進むと、

いよいよ包囲は厳しくなり落城が間近に迫ります。

 

太史慈は、平原の劉備(りゅうび)に救援を請おうと孔融に進言します。

 

孔融は、それは嬉しいが城内では皆失敗すると言っているので、

君をむざむざ死なす事になりはしないかと勇気が出ないと返答しました。

太史慈

 

太史慈「皆が出来ないと言い、私まで出来ないと言えば

私は老母の言いつけも守れず、私の恩も返す事が出来ません

出来ます!心配は無用です」

太史慈

 

孔融の許可を得て、太史慈は一計を案じ、城から飛び出すと見せかけて

黄巾賊を慌てさせては、弓の的を設置して射撃練習をするという

フェイントを繰り返します。

太史慈

 

そして3日目、どうせまた弓の練習だろうと動かない黄巾賊を見た太史慈は、

弓の的を放りだして、黄巾賊の大軍に突撃し見事に包囲を突破

平原の劉備に話をつけて、兵3000を借り都昌の包囲を解く事に成功します。

この辺りは、太史慈の豪胆さと英雄面が出ていますね。

 

劉繇に仕えるが過去の行動がネックになる

 

 

その後、太史慈は同じ青州の出身である群雄の劉繇(りゅうよう)の配下になります。

当時の劉繇は、袁術(えんじゅつ)の配下である孫策と争っていましたので、

知勇兼備の太史慈を大将軍にしてはどうかと劉繇に勧める人がいました。

ところが、劉繇は

「そんな事をして名士鑑定家の許子将(きょししょう)に笑われまいか?」と躊躇(ちゅうちょ)

結局、重く使う事なく、敵情視察だけさせていました。

孫策と一騎打ちをする太史慈

 

有名な孫策との一騎打ちは、この偵察の時に発生したイレギュラーです。

 

劉繇が太史慈を用いないのは、太史慈の身分が低い事もあるでしょうが、

かつての奏章破壊事件が影響しているのではないかと思います。

 

あんなセコイ事をする者は名士の風上にも置けない、

もし、そう思われていたとしたら、名声欲しさにやった21歳の時の事件は

後々になり立身の妨げになった事になります。

太史慈

 

もっとも、太史慈も劉繇が大して使わない事を知って愛想を尽かし、

劉繇が孫策に破られて敗走する時には、供をせず蕪湖(むこ)に入って、

周辺の山越族を支配下に丹陽太守として旗揚げしました。

 

 

ここで、太史慈はとうとう群雄として独立します。

丹陽は、元々の劉繇の支配下の土地であり孫策の手が回らない隙を突いた、

これまたツルセコな独立だと言えば、少し可哀想でしょうか・・

 

呑気に構えている間に孫策が到着、軍門に降る

孫策に降る太史慈

 

山越族を従え、(けい)県以西の六県を支配した太史慈ですが、

呑気に構えている間に孫策が自ら兵を率いて攻めてきました。

太史慈は十分に守る算段が付かない間に攻められたので、

群雄として自立するのは無理と悟り、孫策に降伏したのです。

 

以後の太史慈は死ぬまで裏切らず、孫策の為に劉繇配下の兵を招集したりして、

孫策軍の増強に努め、孫家の一部将の立場になるのでした。

 

 

 

【有名になりたい】小粒群雄太史慈が孫策に出会うまでを紹介

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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