毎日のようにメディアを賑わせるファッションの話題。
女性たちはシーズンごとに洋服選びに浮足立つもの。
短いスパンでコロコロと変わっていくファッションですが、
数百年単位で見ていくと、
服装というものはさらに大きく変化していることがわかりますよね。
国も時代も違う三国時代の人々の服装は、当然私たちが来ている服とは全然違います。
今回は、三国時代のトレンドファッションは
どのようなものだったのかをさらってみたいと思います。
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昔から中国ではドレスコードに厳しかった
五経の1つとして数えられる『礼記』には、喪服に関する記述がずらずらと記されています。
その他の経典にも、服に関する記述は散見されます。
身分ごとにどのような服を着るか。
季節ごとにどのような素材の服を着るか。
何色の服を着るのか。
中国では周代からドレスコードがガチガチに厳しかったのですね。
三国時代の皇帝ファッション
ガチガチのドレスコードは皇帝にも適用されていました。
それは時代が下り、三国時代に至っても変わらず。
まず、皇帝といえば前後にすだれのようなものが垂れている特徴的なあの冠。
あれは「冕冠」というのだそうです。
皇帝がかぶる冕冠は前後に12本ずつ、合計24本のすだれのようなものが垂れています。
冠の側面から簪をさし、髪の毛にしっかり冠を固定。
その簪の両端に「充耳」という玉がつるされた紐をかけます。
「充耳」はつまらない言葉には耳を傾けないという意志をあらわすのだとか。
そして、あご紐を結んで装備完了。
秦の始皇帝は大の儒教嫌いで、この冕冠をかぶらなかったそう。
以後、冕冠は姿を消しますが、後漢の明帝以後は復活したそうです。
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皇帝の衣装コード
皇帝の衣服は「冕服」と総称されますが、
その色や模様によってどのようなときに身につける衣装かが決められています。
最も格式が高いとされているのは「袞衣」と呼ばれるもので、
黒の衣いわゆるトップスと赤い裳いわゆるスカートを合わせたもの。
衣には龍・山・華虫(キジのヒナ)・火・宗彝(宗廟にまつる酒器)の
5種類の刺繍が施されています。
裳には藻・粉米・黼(斧)・黻(「亜」の模様)の4種類の刺繍が施されています。
これらの模様にはそれぞれ意味が込められており、
天への敬意を示すためのメッセージとなっています。
模様は全部で12種類あり、そのすべてをあしらった
天帝に謁見するための最上級の衣装「大裘冕」
というものもあるそうです。
そして、帯を締め、「蔽膝」を身につけます。
「蔽膝」は元々股間を隠す下着のようなものでしたが、
礼服として必ず身につけなければならないものとなりました。
更に時代が下ると、その「蔽膝」で身分を区別するようになっていったのです。
皇帝の靴は「舄」とよばれるものでした。
この「舄」は、今でいう厚底靴で、
泥道を歩くこともできた優れもの。
色は裳と同じ色で、赤が多かったようですね。
赤は天子・諸侯だけが履くことを許された最上級の色でした。
三国時代の武将ファッション
武将たちは「皮弁」と呼ばれる革製の帽子をかぶるのが常でしたが、
曹操は戦乱による物資不足に鑑みて
武将たちにも布製の帽子である「袷」をかぶることを命じます。
そして、その階級によって色を分けたそうです。
主君に謁見する際に身につける礼服は「長袍」と呼ばれるものでした。
これもやはり、階級によってある程度
色が定められていたようですね。
袖がゆったりしていて、襟や袖口には刺繍があしらわれています。
この「長袍」には「曲裾袍」と「直裾袍」の2種類があり、
三国時代は日本の浴衣のようにすそが真っ直ぐである「直裾袍」が大流行していたそうです。
靴は、祭祀に出るときには皇帝と同じ「舄」を、君主に謁見する際は「履」という
糸で編み上げたものを履いていたようです。
そんな武将たちもリラックスタイムのときは「巾」という
簡素な帽子をかぶって上下がつながった浴衣のような楽な服を着て、
靴も下駄のようなものを履いていたそうですよ。
いわゆる「外」と「内」とで服装を使い分ける習慣は、
私たち日本人と通ずるものがありますね。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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