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思ったよりエロい?…三国志時代の女性の下着

2016年2月14日


 

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三国志 女性

 

真面目な話、古代を叙述する上で非常に困るのは、その時代の下着の事です。それも男性なら兎も角、女性となると、その記録は皆無に等しくなります。絵画に残るのは表面の衣服だけですし今のように下着カタログが大量にあるわけではないので情報を入手する事がとても困難になるのです。ただ、それでも、後漢の時代の女性の下着については、色々分かっている事がありますので、それを紹介しましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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今の肌着に当たるのは、衵服(はくふく)

曹操 女性

 

後漢から三国志の時代に掛けての女性の下着で今の襦袢(じゅばん)にあたるのは衵服と呼ばれるものでした。形状は、日本の着物のようで薄い一枚の布地で出来ていて足元まである長いものです、色は白が多かったみたいです。

 

今のブラジャーに当たる心衣(しんい)

金太郎 f

 

一方で、現在のブラジャーに当たるものを一般に心衣と言いました。ただ魏晋の時代には両当(りょうとう)後漢の時代には腹抱(ふくほう)と言っていたようで時代によって、呼び方に変化があるようです。形としては、金太郎さんの前掛けに似ていて背中の方を紐で留めていたようです。背中の紐には、肩とお腹の所の二箇所を留めるタイプと首から紐を交差させてお腹の所で留めるものと2タイプがあったようです。

 

心衣の表面には、色彩豊かな刺繍が施されていて内側には綿が詰められていました。綿を詰めたのは、手触りを良くする為だとありますが、今の豊胸ブラのようにバストサイズをUPするのに使われたかも知れません。このような心衣ですが、色は桃色や赤が多かったようです。

 

三国から晋時代の女性は派手な下着が好きだったのでしょうか?

 

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当時、女性はパンツは穿いていなかった

 

後漢時代の男性は、特鼻褌(とくびふん)という越中フンドシのようなパンツでしたが、逆に女性はパンツを穿いていませんでした。中国において、女性がパンツを穿くのは、明の時代からだそうです。ただ、生理期間中は、着物を汚さない為に生理帯をつけていました。

 

防寒の為か、レッグウォーマー 膝袴(しっこ)

 

当時の女性の下着には、現在のレッグウォーマーに該当する膝袴(しっこ)という衣類があります。ただ、膝袴は膝から足首までを覆う形の布で足を覆うものではないようです。

 

東晋のハレンチ役人?王宏、往来で女性の下着を剥ぎ取る?

司馬炎 はじめての三国志

 

さて、晋書の良吏 王宏(おうこう)伝には、この衵服にまつわるちょっとHな話があります。王宏(?~285年)は名を正宗と言い、ロバの鳴き真似法律の専門家として有名な王粲(おうさん)の従孫です。

 

王宏は前半生は百姓思いの良吏なんですが、晩年は判断力が落ちてしまい、罪人に苛酷にあたったり、勝手に刑罰を変えて罪を重くしたりしました。しかし、晋の武帝(ぶてい)は王宏の前半生の功績が大きいので、あえて大目にみて、王宏を処罰しませんでした。

 

女性に溺れる司馬炎

 

太康年間(西暦280年代)に司隷校尉(しれい・こうい)になった王宏は古来の制度を変えて勝手に法律を造り庶民は派手な服装をしてはいけないと布告して市中を回り豪華な衣服や、キンキラの派手な衣服を着ている市民を捕まえては・・

 

「怪しからん!華美に流れておる!ふしだらである!」

 

とブツブツ言いつつ徹底して服装指導していきます。

 

甚だしいのは、女性でも豪華な衣類を来ていれば、これを検閲して、路上で衵服(下着)を剥ぎ没収してしまったと書いてあるのです。

以下は晋書にある原文↓

 

・宏緣此複遣吏科檢婦人衵服,至褰發于路

 

うわーい!!じゃなかった!何と怪しからん事を!!

これじゃあ王宏はハレンチなスケベ司隷校尉です。この事で大きく評判を損ねた王宏は司隷校尉を罷免されてしまうのです。

 

本当に王宏はハレンチ学園なヤツだったのか?

曹操 女性の敵? 鄒氏

 

しかし、幾ら年を取って判断力が落ちたとはいえ往来で女性の下着を剥ぎ取るようなハレンチな事を王宏がしたのでしょうか?

まだ儒教の影響が根強い社会で、そんなハレンチな事が出来たとは思えません。

 

実は、東晋の時代には、女性のファッションは劇的に多様になり、それまで下着だった衵服を上着として着て外出する流行がありました。まだ、男尊女卑の時代でもなく、悪しき習慣である纏足(てんそく)も無いので、女性には、かなり外出の自由があったと書いてあります。

 

※纏足 女性の足を子供の頃から布で締めつけて大きくならないようにする習慣。こうすると、大人になっても足は小さいので満足に走る事も出来ない。

 

ただ、その雰囲気は後漢の伝統を堅持する儒者には超不評で、晋の女性が下着を上着の上に着るようなファッションを

「世も末!」「亡国の兆し!」と筆を極めて批判していました。

 

推測するに王宏も、そんな今時の晋の女性の服装を見咎めて、女性が上に羽織った衵服を剥ぎ取り没収したのでしょう。その証拠に王宏は間もなく許され、今度は尚書として復帰しています。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

魏晋南北朝の時代の貴族の女性は現代の私達のイメージとは違い、家の奥に籠らず、積極的に外に出て社交をしていたようです。後漢が倒れ杓子定規な儒教の規律が衰え、逆に老荘思想が前に出て、人間の欲望を肯定するような風潮が産まれ、女性も美しく着飾り、恋愛を楽しみたいという雰囲気が到来した。それがより派手で目立つファッションを産み出したかも知れませんね。

 

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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