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曹操も思わずツイート!三国志の時代に造られた精巧な地図

2018年7月11日


 

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蜀の劉備

 

人が見知らぬ土地に移動する時、必要になるのがガイドです。もしガイドがいないなら、せめて地図は必要でしょう。

 

 

地図やガイドがない旅行を想像すれば、スケジュールは立てられず行き当たりばったりの散々な内容になる事は間違いありません。ましてや、行く手に敵が待っている戦争では、地図が無ければ全滅を回避する事も難しいでしょう。そんなわけで、戦乱の連続だった中国では地図が発達する事になります。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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管子にも銘記された地図の重要性

馬王堆から出土した駐軍図を簡単に写したイラスト

(画像:馬王堆から出土した駐軍図を簡単に写したイラスト)

 

中国では春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代の遺跡から軍隊の陣地、地形の高低や重要な拠点などを描いた実物の地図が出土しています。当初は木簡や絹布に描かれ、時代が下ると絹布と紙に描かれました。前漢末に編纂された政治や軍事についての記述のある管子(かんし)には、「軍司令官は必ず地図を熟知する必要がある」と前置きし

 

祁山、街亭

 

「地図を見る事で、険しい道や車輪を浸すような水、名山、溪谷、河川、山岳、丘陵の位置、水草、森林、(がま)(あし)繁茂(はんも)の状態、道路の距離、城郭の規模、有名な都市、放棄された都市、土地が耕作に適しているかどうか、全て知る事が出来複雑な地形を事前に把握する事が出来れば、すべて事前に行動して敵を襲撃でき、地の利を失う事もない」

 

青州兵(兵士)

 

地図を作製する効能について力説しています。少なくとも2000年前には、軍事用の地図が盛んに作られていた証拠だと考えられます。ちなみに現在、中国で最古とされている地図は、紀元前310年に中山王国から出土した陵墓の平面図だそうで墓の間取り図です。

 

 

地震感知器を発明した張衡が地図を改革した

 

地図はあったとはいえ、後漢の中頃までの地図は縮尺も方格もありません。つまり、当時は見た目のイメージに頼った地図を書いていたのです。私達が小学校の社会科で造る自宅の周辺のような地図が当時のレベルでした。しかし、地震感知器を発明した事で知られる張衡(ちょうこう)(78~139年)が登場した事で中国の地図は劇的に進歩する事になります。張衡は地図投影法の一つである、正距円筒図法(せいきょえんとうずほう)を確立しました。

 

ザックリ言うと、小学校などにあるメルカトル図法に連なる地図です。この図法は地図の緯度と経度をそれぞれ地図の縦・横にそのまま読み替えた円筒図法で、標準緯線上と縦方向に関して正しい距離です。形としては、地球の球体に円筒形の紙を被せて書かれているので標準緯線から外れると歪みが生じ面積や角度は不正確です。ただ、歪みは世界規模なら大きくなるものの、国内を移動する分には、その歪みは大きくなく、十分実用に耐えます。

 

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曹操も思わずツイート当時の地図

 

地図の効用については、曹操も魏武註孫子形編で力説しています。

 

正しい測量法によって、正確な地形の立体的な全体像をつかんでおけば距離の遠近や面積の広さ敵軍の規模などを即座に判定する事ができる。

 

ここには、曹操が正確な地図の効用を理解し、その必要性を理解していた様子がうかがえます。曹操が現代にいれば、いかに地図が有用かを思わずツイートしたのではないでしょうか?

 

 

中国の地図を確立した晋の裴秀

指揮官をしている劉備

 

張衡が確立した正距円筒図法は、西晋に仕えた裴秀(はいしゅう)により確立されました。彼は、西晋建国時の必要性から、禹貢地域図(うこうちいきず)十八編を作成して西晋の領土の視覚的な把握に努めると同時に、序文に地図作製の準則六体(じゅんそくろくたい)分率、準望、道里、高下、方邪、迂直(うちょく)を示し、方丈図を作成しています。これは、記里鼓車(きりこしゃ)という走行メーター付きの車で大地を測量して作成された地図で、一寸が百里と決められています。以後、中国では17世紀に欧州から新しい地図の知識が伝来するまで裴秀の準則六体に則った地図を作り続ける事になります。

 

 

三国志の時代には、正確な地図で戦った

軍略中の郭嘉

 

張衡から、裴秀まで100年近くありますが、その間、地図の作成が止まったとも思えず戦乱の時代でもあるので盛んに地図は造られた事であろうと考えられます。それは、張衡の正距円筒図法に則った地図であり、縮尺や方尺を持つ本格的な精度を持ったものだったと考えられるのです。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

当時の地図は、今のように単色ではなく、平面的な表現をカバーする名目で様々な色使いで描かれたようです。例えば、戦略上のポイントである城郭や都市は、黒や朱色で縁どりして見落とす事がないように工夫されていました。もしかすると、河は水色、葦や蒲は緑で塗られていたのかも知れませんだとすると、今よりもずっとカラフルな地図で、三国志の将軍たちは戦略を練っていたのかも知れませんね。

 

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三国志ライフ

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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