三国志時代の楽しい農村!当時の農業とはどんなのがあったの?

2016年3月29日


 

毛沢東(もうたくとう)

 

農業は生活の根本です、何故なら人間は食べないと生きていけないからです。かの毛沢東も「道路は喰えない」という名言を残していますが、自動車より、スマホより重要なのが食糧の確保であり、それは=農業の振興と切っても切れなかったのです。そこで今回は、三国志の時代の農業について、紹介したいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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華北と華南では、栽培する作物が違った

 

中国は広大であり、華北と華南では気候も違うので栽培している作物も別でした。華北は乾燥していて、水田には不向きだったので粟(あわ)とか黍(きび)、麦(むぎ)が栽培されます。特に粟は、火力が弱い三国志の時代の竈でも、短時間で火が通ったので、日常食として、身分の上下に関係なく、広く食べられました。一方の華南は、高温多湿で、長江など水に恵まれていましたので、早い時期から稲が栽培されていたのです。

三国志 英雄たちの宴

 

分かりやすく言うと、華北出身の劉備(りゅうび)や曹操(そうそう)は、粟や小麦を食べ孫権(そんけん)は、華南なので、米を食べていたという事です。

 

当時の開墾の方法 耦耕(ぐうこう)

劉邦と簫何

 

田畑というのは、毎年毎年、作物が取れるというわけではありません。一度、作物を取ると、土の栄養が殆ど失われるので、一年は休ませて土地の力を回復させないといけませんでした。しかし、一年、放置しておくと、一度耕した田畑の表面は、再び、堅くなってしまい、そのままでは作物を植える事は出来ません。そこで、土おこしと言って、田畑の土を掘り返してほぐす事になります。土を掘り起こす事で、土の中に新鮮な空気を送り込むと共に、たい肥などを加えて、土に栄養を与えて、作物がよく実るようにするのですが、その耕起は、非常に骨が折れる作業でした。そこで、考え出されたのが、二人一組で鋤を使い畑を耕す耦耕です。

 

鋤(すき)とは、どんな農具なのか?

 

耦耕に使用されるのは、鋤という道具です。形としては大きなスコップですが、スコップと違い、内側に凹みはなく土を溜めて掘りだす事は出来ません。先端は鉄で覆われていて、地面に突き刺し土を起す事に向いています。鋤には一本歯と、先が二股に分かれているタイプがあります。

 

耦耕のやり方とは、どんなもの?

 

耦耕は、大体、同じような背格好の人間二人で行います。二人が横並びになり、鋤を相手側にV字になるように突き刺し、お互いに掛け声をしながら、タイミング良く鋤を起していきます。たった、これだけの事なんですが、二人で土を起すので、力は半分で済む上に、掛け声などを掛けあう事で辛い作業も、勢いが付き、楽しく行えるというメリットがあったようです。

 

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耦耕は、牛に引かせる犂(すき)が発明されると消滅する

 

耦耕は、牛に犂をセットして、耕す方法が出現してから消滅します。牛に犂を曳かせる技術は、紀元前3000年代には出現しているようですが、一般的になったのは、紀元前2世紀から、1世紀の間のようで、その時代の墓の壁画には、牛に犂を曳かせているシーンが登場します。犂は、牛の肩に掛けて、長く引っ張り、短い沢山の歯がついた部分を地面に向けて使いますが、このままでは軽いので、鞭を持った、人間が、犂の上に乗り、牛に鞭を当てて走らせました。こうする事で、犂が深く地に食い込んで深い部分まで土を起せます。現在のトラクターは、牛がやっていた作業を機械でやっているだけで、その原理は、牛を使った犂耕作と同じです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

耦耕は、孔子(こうし)が諸国を遍歴していた時代、紀元前6世紀には、もうあったようで、長沮(ちょうそ)と桀溺(けつでき)という農民二人が耦耕をして畑を耕していたそうです。牛が農耕の家畜として、飼われるようになり、牛耕が一般化しても、家畜として牛を持てない貧しい農民はいたでしょうから、三国志の時代でも、耦耕は残っていた事でしょう。本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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