聖徳太子が手に持っている細長いしゃもじのような板は笏と言います。読み仮名は本当はコツですが、日本ではコツは骨に通じて縁起が悪いとしてシャクと読み替えるようになりました。あれも中国から伝わったのですが、三国志の話ではあんまり見ませんよね?
じゃあ、三国志の時代には笏はないのかというと実はちゃんとあるのです。今回は細かすぎて需要がない三国志と笏について解説します。
そもそも笏って何ですの?
笏は全て君主の前で事務を奏上する時に用いられました。元々、笏とは、メモ帳の代わりであり臣下は笏に命令を記述したり、その日、やらないといけない事を書いていたのです。笏はそういうものですから、余程、記憶力が高い人以外には、必需品だったのです。笏はメモ帳として、では筆はどうしたのでしょう?
実は筆は耳に挟んでいたそうです。競馬場の親父が鉛筆を耳に挟むようなものですね。晋の時代には、笏の上に皮袋を付けて中に筆を入れるという筆携帯型の笏もあったのだそうです。笏の語源は、君主の命令や、その日の仕事を忽ちの間に書きつける忽が、笏に転じたとも言われています。周の時代には、家の中でも父母に仕える時には大帯に笏を差して父母に言われた用事を書き留めて漏れがないようにしました。
三国志の人々が一見、笏を持っていないように見えるのは、帯の背中に差していて見えないだけかも知れません。
身分によって材質が違う笏
笏は上は天子から士まで等級によって材質に違いがありました。天子が使う笏は珠玉、諸侯の笏は象牙、大夫は竹の両側を鮫のヒゲで飾り士は竹製ですが、周辺を象牙で縁取りしてよいとされました。しかし、象牙は削って使えるとしても、天子の珠玉は一度書いたら、もう削れないような気がします。
もしかすると、天子の笏は儀礼的なモノだったかも知れません。笏は長さが二尺六寸ですから78センチ、幅は一番広い中央で三寸、9センチだと記録されています。
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■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
漢晋の時代には手版と呼ばれた笏
漢晋の時代には、笏は手版と呼ばれるようになりました。この時代には長官に拝謁する時に使っていました。三国志の話にも、呉の凌統が一万余りの精兵を率いて山越の割拠する県内を通過する時に手版を手に県長を訪問し恭しく一礼したとあります。手版を奉じる作法は両手で鼻の先に手版を捧げ持つので、自然に背中が丸まり敬虔な姿勢になるのです。
後漢の末に、仲常侍の唐衡の弟に唐玹という人物がいて、兄の威光で虎牙都尉に任命され傍若無人に振る舞い京兆尹の廷篤に手版も持たずに挨拶無しで門を通過しようとしました。しかし、京兆尹の功曹の趙息は強直の士で、唐玹を叱りつけて無理やりに手版を持たせて廷篤に拝謁させています。京兆尹も県長も長官に違いはありませんから、当時は県や郡を通過する時には、長官を訪問して手版を捧げるという礼儀のあった事が知れるのです。
手版は武器?夏侯纂の頬をぶった秦宓
県長に対して礼儀を示す手版ですが、同時にこれを投げ捨てるのは憤りなどを示す意思表示になりました。後漢の范滂が清流派官僚として名高い陳蕃に会った時、恭しく手版を捧げて礼を尽くしたのに、引き留めもしないので立腹した范滂は手版を投げ捨てて官を退いたという話があります。
また、呉の使者としてやってきた傲岸な張温を博識でやり込めた秦宓は、広漢太守の夏侯纂の知遇を受けて、仲父(叔父さん)と尊称されました。しかし、秦宓はそう呼ばれるのを嫌がり、病気で寝ているときに、折詰弁当を持って見舞いにやってきた夏侯纂が仲父と呼ぶのを「私を仲父と呼ぶのは止めて下さい」と言いながら持っていた簿で夏侯纂の頬をペシペシ叩いたと言われています。
そもそも、秦宓は少々、傍若無人な所のある人物で、この時も、見舞いに来た上役の夏侯纂を見ても寝たままで体も起こさないという態度ですから、簿で夏侯纂の頬をペシペシする程度はやりそうです。
ここで出ている簿は手版のようなものであると西晋の杜預が記録しているので簿は手版、笏と同じものと考えていいかと思います。
三国志ライターkawausoの独り言
非常に細かすぎる三国志の時代の人々の持ち物、手版について解説しました。こんな知識、どこで使えばいいのか困るかも知れませんが、創作の三国志小説に反映させれば、少しリアリティが上がるのではないでしょうか?
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