中村半次郎(桐野利秋)はどんな人?本当は冷血な人斬りではなかった!

2018年7月15日


 

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中村半次郎

 

中村半次郎(なかむらはんじろう)は「人斬り半次郎」の異名で知られています。

映画や小説では、座敷で静かに鎮座して来客に対応している西郷(さいごう)の様子を

隣の座敷で(ふすま)越しに(うかが)いながら、「こん男は西郷どんの為にならん」と思えば

独自の判断でたちまち斬殺してしまう西郷にだけ忠実な恐るべき狂犬・・

一般の半次郎イメージはそんな感じではないでしょうか?

しかし、イメージはイメージ本当の半次郎は情に厚くオシャレで包容力があり

出会った人々を魅了してしまう無邪気な人柄だったそうなのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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薩摩藩の城下士極貧の家に生まれる半次郎

極貧の家に生まれる半次郎

 

中村半次郎は1838年、薩摩藩の城下士中村与右衛門(なかむらよえもん)の3番目の子として生まれます。

中村家は家禄五石という極貧の武士で、自らも田畑を耕さないと食べていけません。

 

しかも半次郎10歳の時に、父の与右衛門は罪を犯して徳之島に流され

家禄の五石も没収され、暮らし向きはますます苦しくなりました。

上の兄が病死した半次郎は家族を支える為に他人の畑を耕すなど細々と働き

なかなか学問も出来ない食うや食わずで少年期から青年期を過ごします。

 

ただ、半次郎自身はそんな自分を不幸だと思わない明るく爽快な青年で

決闘を申し込まれても、明るく笑い飛ばして構わず、その爽快さに

決闘を申し込んだ側は魅了され逆に親友になったそうです。

 

小松帯刀に見いだされ幕末の京都で活躍

小松帯刀

 

1862年3月、半次郎は精忠組(せいちゅうぐみ)に所属していた関係で引き立てられ、

藩父島津久光(しまづひさみつ)の供をして上洛する事になります。

直後に起きた寺田屋事件では、半次郎は関与しませんでしたが、

同志を斬る事になった同郷の奈良原繁(ならはらしげる)に対しては違和感を感じ、

それまで仲が良かったのが距離を取るようになりました。

 

そのまま京都に残った半次郎は、その爽快な人柄から諸藩の志士とも

広く交友を持ち、そこで尊王攘夷(そんのうじょうい)思想に目覚めていきます。

半次郎は最初、藩の家老の小松帯刀(こまつたてわき)に見いだされ、そこから西郷や

大久保も半次郎を重宝するようになりました。

 

交遊関係の広い半次郎には、長州も薩摩もなく、

尊皇の志士は皆仲間という態度で接し、藩同士は仲の悪かった長州藩士とも

非常に仲が良く、池田屋事件で激高した長州藩が暴発寸前になると

小松帯刀に願い出て薩摩藩を脱藩した事にして長州に行き、

なんとか暴発を抑えようと奮闘しますが、長州藩には入れず、

結局、禁門(きんもん)の変が勃発してしまいます。

西郷隆盛

 

禁門の変では、一薩摩藩士として長州藩兵と刃を交えますが、

積極的に戦ったという説と、戦いを避けていたという説と、

正反対の証言があるようです。

 

俺達尊攘派

 

ただ一件、確定している半次郎の人斬りとは?

闇討ち

 

その後も半次郎は、薩摩藩屈指の倒幕派として活躍します。

一方で情に厚いのも相変わらずで、坂本龍馬(さかもとりょうま)が寺田屋で負傷した時には

病状を心配して毎日のように見舞いに来たそうですし、

龍馬が近江屋で暗殺された時には、犯人探しと海援隊(かいえんたい)陸援隊(りくえんたい)への

連絡などで奔走したそうです。

 

そんな陽気で情に厚い半次郎には一件、確定している人斬り事件があります。

これは、1867年9月30日、薩摩藩で砲術を教えていた公武合体論者(こうぶがったいろんしゃ)の洋学者、

赤松小三郎(あかまつこざぶろう)を殺害した事で、殺害理由は薩摩藩の内情を知りすぎた事や

幕府よりの態度であったのでスパイだと疑い独断で斬ったそうです。

 

半次郎の流派は、薬丸自顕流(やくまるじけんりゅう)で剣は凄腕、満腔(まんこう)の怒気を発散されると

周囲は半次郎の顔をまともに見れない程の気合だったそうなので、

怒ると非常に怖い人の一面も持っていたわけです。

 

西郷どんの懐刀として戊辰戦争を戦い抜く

 

半次郎は維新前後で改名し桐野利秋(きりのとしあき)と名乗ります。

王政復古後、城下一番小隊に属して鳥羽伏見(とばふしみ)で戦い手柄を立て、

その手柄で小隊の小頭見習いを勤めます。

そして、東征大総督府下参謀(とうせいだいそうとくふかさんぼう)西郷隆盛(さいごうたかもり)が先発隊の500名を率いて江戸に向かうと

城下一番小隊長に抜擢されて、駿府と小田原を占領しました。

 

次に小田原までやってきた輪王寺宮公現法親(りんのうじのみやこうげんほうしんのう)の軍勢に対して西郷は

桐野を派遣して「どんな理由で軍を率いてきたか?」と尋問させました。

これに気後れした輪王寺宮公現法親王の軍勢は兵を引き上げて戦闘は回避されます。

 

このように桐野は武勇だけではなく、理路整然と議論を展開して、

相手に平和裏に武器を納めさせる手腕もあったようです。

以来、西郷は桐野を気に入り、江戸城無血開城の交渉の時も桐野を伴い

談判を行う程でした。

 

上野に立て籠った彰義隊(しょうぎたい)との戦いでも西郷の指揮下黒門で戦い手柄を立てますが

その後、神田三河町で風呂帰りに一刀流の剣客鈴木隼人(すずきはやと)等3人の刺客に襲われ、

一人を斬り捨てて撃退しますが、左手中指と薬指を切り落とされます。

傷は悪化し、横浜軍陣病院に入院して回復しました。

 

戊辰戦争では大総督府の軍監を命じられ、鹿児島、宇都宮の二藩兵を率いて戦い

会津若松城を陥落させました。

 

しかし、桐野には会津に対する恨みも戦勝者の横暴な振る舞いも微塵もなく、

会津若松城を受け取る際には、一敗地に見舞われた会津藩士の無念を思い

号泣しながら城を受け取ったと言われています。

そして、城内の人の為に親身になって面倒を見た事から後に

会津藩主、松平容保(まつだいらかたもり)から人を介して宝刀を与えられたそうです。

   

陸軍少将桐野利秋として・・

 

明治4年、鹿児島に引っ込んでいた西郷隆盛が廃藩置県(はいはんちけん)の為に呼び出されると

桐野利秋も、大隊を率いて東京に上京しました。

兵部省出仕(ひょうぶしょうしゅっし)となり、陸軍少将を拝命、少将になってからは洒落者ぶりを発揮

虎髭を生やして顔を飾り、金無垢(きんむく)の懐中時計を購入して

軍服はフランスのオーダーメイド、軍刀も金銀こしらえで体には香水を撒いて

遊郭でも人気の伊達男に変身しています。

 

西郷どんは、桐野の虎髭を見苦しいと顔をしかめていて、

ある時に、みっともないからヒゲを剃れと命じました。

桐野はその通りに剃りましたが、しばらくするとまた生やしたので

西郷どんは何も言わなくなったそうです。

 

明治六年の政変では、西郷と共に鹿児島に下野して熱心に開墾に従事します。

一般には桐野は無思想で、ただ西郷の意向に従ったように思われますが

同じ薩摩藩の出身の市来四郎(いちきしろう)によれば、桐野は人情に厚く頭脳明晰であり

維新政府の政治の不公正に憤り、一刻も早く議会を開いて立憲政治を確立し

民権を安定させる事を願っており、無学文盲ながら実践に明るく

半端な知識人は見識で及ばないと記しています。

 

桐野利秋、鹿児島に散る

 

鹿児島では、私学校の支部である開墾社の責任者として鍬を奮いますが

明治10年に2月6日の私学校生徒による火薬庫強奪事件や、

政府による西郷隆盛暗殺事件などが明るみに出ると、その対応で

明治政府に対して兵を挙げる事を唱えて会議をリードし、

結果、西郷軍は蜂起して西南戦争(せいなんせんそう)の火蓋が切られます。

 

戦いは7か月続き桐野は戦い抜きますが、西郷隆盛の死を見届けた後、

鹿児島川崎口の一塁に立て籠って奮戦、額を銃弾に撃ち抜かれ戦死しました。

享年40歳でした。

 

無学文盲ではなかった桐野利秋

書籍

 

ところで、中村半次郎というと無学文盲という言葉がつきまといます。

しかし、これは事実ではなく、読み書きは外祖父の別府四郎兵衛(べっぷしろうべえ)から教わり

上手ではないが和歌も詠んでいます。

 

ただ、生活に余裕がないので、四書五経(ししょごきょう)のような習得に時間がかかる教養はなく

学問はすべて自己流か実践で覚えたものが主でした。

それだけに系統立てた修養はなく、浅い部分や不十分な部分はありました。

一方向学心は非常に強く、坂本龍馬の繋がりでか勝海舟(かつかいしゅう)のやっていた

海軍操練所(かいぐんそうれんじょ)の私塾に入ろうとしていたとも言われています。

 

文盲説が広まったのは当人が自嘲して「おいは文盲じゃ」と言った事に

尾ひれがついたようです。

坂本龍馬

 

坂本龍馬も子供の頃は、呆れる程にバカで落ち着きがなく、

どこの塾でも(さじ)を投げたせいで四書五経を覚える事が出来ず、

漢文も読めませんでしたが、それを文盲という人はいません。

半次郎も同様であり、独学ながら様々な学問に通じていたからこそ

諸藩の藩士と交流を深める事も出来たのでしょう。

 

幕末ライターkawausoの独り言

幕末ライターkawausoの独り言

 

桐野利秋は、NHK大河ドラマ西郷どんでは、中村瑠輝人(なかむらるきと)さんが子役を演じ

成長した役では、大野拓朗(おおのたくろう)さんが演じます。

どちらもイケメンで、人気が出そうですね。

 

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西郷どん

 

 

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