佐賀藩は肥前国にある鍋島氏が治めた藩として有名です。幕末の佐賀藩の藩主は鍋島直正で、幕末に雄藩として台頭しました。明治維新後、薩長土肥の藩閥政府の一員として加わり、明治新政府で江藤新平など近代国家の基礎を築いた人物や肥前出身で後に総理大臣になる大隈重信を輩出します。
この記事では、佐賀藩が雄藩として台頭した鍋島直正について取り上げます。佐賀藩の藩主・鍋島直正の改革と明治新政府後の佐賀について取り上げます。
この記事の目次
財政改革で佐賀藩を雄藩に成長させた鍋島直正(閑叟)
鍋島直正の藩政改革として均田制が挙げられます。均田制とは飛鳥時代や奈良時代など古代の日本で見られた制度で、一定の年齢に達したら口分田が与えられます。口分田を支給する狙いとして、本百姓を維持することが考えられます。
産業の育成では陶器・櫨蝋・紙の開発に力を入れました。陶器は鍋島焼と言われ、人気がある伝統工芸品の一つです。その他に石炭の増産も行い、財政を立て直しました。佐賀藩は長崎警備を担当していました。藩主の鍋島直正は自ら長崎に赴き、外国警備の重要性と西洋技術の優秀性を認め、藩政改革では洋式軍制改革を実施しました。
1852年に日本で初めて反射炉の建設に成功しました。大量の銃砲を購入し、西洋艦船の製造・購入にも努めました。また、医療では天然痘のワクチンを輸入して長男で実験してから、緒方洪庵に分けています。ワクチンを緒方洪庵に分けたことで天然痘の根絶につながりました。結果、雄藩として台頭することになりました。
戊辰戦争で官軍についた鍋島直正(閑叟)
佐賀藩は京都に家老や藩主が不在だったため、鳥羽伏見の戦いに参加することができませんでした。鳥羽伏見の戦いに加わらなかったことで、薩摩藩から佐賀征伐を主張する声があがりましたが、薩長側が勝利に終わってから佐賀藩は新政府軍(官軍)に加わりました。
佐賀藩は上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで新政府軍に加わりました。戊辰戦争において最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は大きかったと言われています。明治政府になってから鍋島直正は議定に就任します。直正が育てた人材では近代国家の基礎を築いた江藤新平らが新政府に加わり活躍します。結果として、佐賀藩は最初から戊辰戦争に加わっていませんが、近代化を推し進めた直政の業績によって薩長土肥の一角を担うことになりました。
先見の明があった鍋島直正(閑叟)
鍋島直正は先見の明があったことでも知られています。明治維新の中で廃藩置県や版籍奉還については鍋島直正が諸藩に先んじて実践したと言われています。北海道の開拓事業では、旧幕府軍との戦いで得た褒賞を使って元藩士を北海道に移住させました。50年先の外交・食料・資源などの問題を見通し、満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言するなど先見の明があったことでも知られています。
鍋島直正(閑叟)の死後、佐賀に暗雲が立ち込める
1871年、鍋島直正は明治維新の数年後に亡くなりました。直政の死去は佐賀藩が明治新政府における影響力を失うきっかけになったと言われています。佐賀藩の影響力が弱まったことで、明治六年の政変で佐賀藩出身の江藤新平・副島種臣が下野し、佐賀の乱につながりました。
幕末ライターオフィス樋口の独り言
この記事では佐賀藩の鍋島直正とその藩政改革について取り上げました。佐賀藩の藩政改革では洋式軍制改革も行われ、明治新政府の近代化にも貢献しました。2015年の世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」で佐賀藩から三重津海軍所跡が登録されました。2018年の大河ドラマ『西郷どん』では佐賀藩の藩政改革に注目したいと思います。
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