男性のシンボルといえば、下半身の方を思い浮かべてしまいがちですが、
もっと目につくところにありますよね。
ほらほら、顔にあるアレですアレ。
そうそう、思春期になると生えてくるアレ。
そう、おひげです。
ひげを漢字で書こうと思って辞書を引いたら髭・鬚・髯といった3種類の漢字が出てきます。
これらの3つのひげは、どこから生えているおひげかによって使い分けられます。
「髭」は口の上に生えるいわゆる口ひげ、
「鬚」はあごから生えるいわゆる顎ひげ、
「髯」は頬っぺたから生えるいわゆる頬ひげだそうです。
ちなみに英語でも口ひげは「mustache」、
顎ひげは「beard」、頬ひげは「whisker」
といった具合にやっぱり使い分けられているようです。
ひとえにひげと言っても人によって薄かったり濃かったり、
口元にしか生えなかったり、もみあげまでつながって生えたりと千差万別。
その表現が多種多様なのも当然と言えば当然のことでしょう。
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『三国志』のひげといえばやっぱり…
「三国志 ひげ」でGoogle検索をしてみると、その筆頭に出てくるのはやっぱり関羽。
「美髯公」の愛称で知られる関羽のおひげはそれはもう立派なものだったことでしょう。
コンディショナーのCMに出ている美しい髪をなびかせる女優たちも真っ青になるほどの
黒々と艶やかで美しいお髭を持っているイメージが強い関羽ですが、
きっとその美しいひげを維持するために
世の女性たちもびっくりするほどのこだわりがあったのではないかと
邪推せずにはいられませんよね。
主君劉備はおひげが薄いことで有名でしたが、そんな主君の欠点を見事にカバーしている関羽。
やっぱり男の中の男ですよね…!
負けるな!虎ひげ・張飛
ひげの美しさで名を馳せる関羽の義弟・張飛もおひげを生やしていたことは
『三国志』をモデルにした数々の漫画やゲームからも想像できます。
『三国志演義』では張飛は「虎鬚」を持った男として描かれていますから、
この記述に則って張飛のイメージが作られているのですね。
「虎鬚」とは、ごわごわしていて突っ張ったような印象の顎ひげのこと。
艶やかな関羽のひげとは正反対の印象を受けますね。
獺祭と称される晩唐の詩人・李商隠は「驕児詩」において
「或いは張飛の胡(ひげ)を謔(あざけ)り、或いは鄧艾の吃を笑う」というように
得意とする典故表現として張飛のひげを引いています。
やんちゃ坊主が客人のひげを指して
「張飛のひげみたい」と馬鹿にしはじめるので困ってしまうということを詠っているのです。
この詩に代表されるように、
あまり良いイメージが持たれていない張飛のツンツンごわごわのおひげですが、
『三国志演義』の作者は勇猛果敢でカッコいい虎の姿と張飛の姿を重ねようと
「虎鬚」という言葉を用いたのでは…?
とプラス方向に捉えておきたいところ。
頑張れ、張飛。
おひげが黄色!?曹彰
変わったおひげの持ち主といえば、曹彰を思い浮かべる人も少なくないかもしれません。
何せ彼は父・曹操に「黄鬚」と称されているのですから。
黄色いひげ…?
髪は黒かったけれど、おひげだけは黄色かったってことかな?
と思う人もいるでしょう。
しかし、どうやら黄色というのは虎の体毛の色のことを表していたようですよ。
「虎鬚」というと悪口のように聞こえるけれど、
「黄鬚」といえば虎の勇敢なイメージがわいてくる…。
この印象の差は一体何なのでしょうか?
おそらくそれは魏のシンボルカラーが黄色であることに関係しているのでしょう。
黄色というのは魏にとってとても縁起の良い色とされていたため、
曹操はその色を使うことによってプラスイメージをわき上がらせることに
成功したというわけです。
文学を愛する曹操の言葉の魔術がここに現れていますね。
しかし、その一方で曹彰は本当に鬚だけ黄色かったようだという説も…。
実際のところ曹彰はどんなおひげをたくわえていたのでしょうか…?
これは縁起がいい!孫権のおひげ
蜀にも魏にもおひげがチャームポイントの武将がいますが、
呉は君主のチャームポイントがおひげなのです。
その君主こそ赤壁の戦いで名を馳せた孫権です。
『三国志演義』によれば、なんと彼のおひげは紫色!
しかもお目目は碧眼、すなわち青だったのだそうですよ。
三国志ライターchopsticksの独り言
まるで漫画のキャラクターのような色合いのおひげとお目目をお持ちの孫権ですが、
本当にそんな色だったのでしょうか?
どうやら紫色というのはそのへんのオバチャンがよく白髪染めに使っているあの真紫ではなく、
どちらかというと赤紫がかった茶色だったようですね。
孫権は全体的に色素が薄かったのでしょう。
その容貌を見た父孫堅はこれは至高の面相だと言ってその将来を嘱望していたようですね。
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