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【これが本当の目玉焼き】射抜かれた左目を食べた夏侯惇とは?

2018年7月30日


 

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夏侯惇

 

今回は隻眼(せきがん)の武将について取り上げます。この記事では、隻眼で有名な人物を取り上げます。

 

伊達政宗

 

 

最初に日本史で隻眼として有名な伊達政宗(だてまさむね)を取り上げ独眼竜(どくがんりゅう)政宗のルーツを紹介します。それから三国志において隻眼で有名な夏侯惇(かこうとん)を取り上げます。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志で一番有名な片目の名将

夏侯惇

 

日本史において隻眼で有名な将は誰でしょうか。武田信玄(たけだしんげん)の軍師である山本勘助(やまもとかんすけ)や仙台藩の伊達政宗が挙げられます。この2人の肖像画を見ると片目に眼帯をしているか目が見えないような表情をしています。この2人が片目を失った原因は子供の頃にかかった疱瘡(ほうそう)だったと言われています。

 

武田信玄

 

 

片目というハンデを気にすることなく、2人は戦国武将として活躍しました。山本勘助は川中島の戦いで戦死しますが、武田信玄の軍師として数多くの戦いに勝ち、有名になりました。大河ドラマでは『武田信玄』や『風林火山』が放送されました。

 

戦場で活躍する伊達政宗

 

伊達政宗については江戸時代初期に伊達仙台藩の基礎を築きました。また、1987年に大河ドラマ『独眼竜政宗』が放送されました。山本勘助や伊達政宗は日本史の中で隻眼の将として最も人気のある人物の一人となっています。

 

 

夏侯惇は左右どちらの目を失った?

 

ここでは隻眼を意味する独眼竜のルーツと夏候惇の失った目について取り上げます。最初に、独眼竜の元祖は後唐の李克用(りこくよう)であると言われています。李克用は病気で片目を失いましたが、片目を気にすることなく活躍し猛将として歴史に名を残しました。李克用の前にも隻眼で有名な人物がいました。その人物とは三国志に登場する夏候惇です。夏侯惇は病気ではなく戦いで左目を失いました。

 

赤兎馬にまたがる呂布

 

呂布(りょふ)の起こした反乱において、曹操軍と呂布軍は兗州(えんしゅう)の地で4年間戦い続けました。この反乱は激戦となり、夏候惇は曹性(そうせい)の放った矢で射抜かれ、左目を失いました。

 

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一騎打ち

 

 

左目をパクリ「大変美味しゅうございます」

目玉を食べる夏侯惇

 

夏候惇は左目を射抜かれ、ほとんど動くことができなくなりました。夏侯惇は味方に助け出され、首を刎ねられませんでした。助け出されましたが、左目に矢が刺さった状態でした。この後に夏候惇は敵と味方が驚くような行動をとります。夏侯惇は自分で刺さった矢を抜き取りました。矢を抜き取ると、「親に貰った大事な体の一部を捨てられるか!」と叫び、突き刺さって失明した左目をくり抜いて食べました。

 

夏侯惇

 

敵の曹性は夏侯惇の左目を食べるという異常な行動に圧倒されました。何もすることができなくなり、曹性は夏候惇の槍で突かれて死にました。夏侯惇が突き刺された左目をくりぬいて食べたシーンは三国志演義のなかでも有名な一場面として語り継がれています。

 

夏侯惇

 

 

隻眼武将でも出色の夏侯惇

曹操と夏侯惇

 

この記事では隻眼で有名な人物を何人か取り上げました。最初に、日本史において隻眼で有名な将として山本勘助や伊達政宗を取り上げました。次に、独眼竜の元祖である後唐の李克用と三国志において隻眼で有名な人物として魏の夏侯惇を取り上げました。夏侯惇以外の3人については疱瘡という病気で失明したことが分かりました。

 

李克用以前の隻眼の将として夏侯惇を取り上げました。夏侯惇については戦いで失明したことがわかりました。夏侯惇は隻眼の将となってから、戦い続けました。戦いのけがで左目を失ったことにより、夏侯惇は盲夏候(もうかこう)と呼ばれましたが、見下す意味で呼んでいたのではなく、武将として敬意をもって呼んでいたと考えられます。

 

夏侯惇は左目を失っても戦い続け、武功を挙げたことから多くの三国志ファンから支持されています。夏侯惇の逸話について、読者の中には戦場で自分の失明した目を食べたという逸話が本当かどうか信じられないと思う人がいるかもしれませんが、みなさんはどのように考えますか。

 

※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。

 

元記事:夏侯惇は本当に自分の目玉を食べたの?

 

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