伊藤博文と井上馨、二人の絆の原点はトイレだった?

2018年8月5日


 

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伊藤博文

 

伊藤博文(いとうひろぶみ)井上馨(いのうえかおる)は同じ長州藩士ですが、長州藩にいたころ伊藤博文と井上馨は身分が大きく違いました。この記事では、最初に貧しい農家の出身の伊藤博文とエリートの井上馨との出会いについて取り上げます。2015年1月放送の「歴史悲話ヒストリア」の『友がいれば、越えていける!』を基に意外な友人関係について取り上げます。それからイギリスのロンドンから帰国した伊藤と井上の2人について取り上げます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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身分が大きく違う伊藤博文と井上馨、二人の出会いは?

吉田松陰

 

1841年、伊藤博文は長州藩の農家に生まれました。生まれたのは現在の光市でしたが、生活が貧しかったため萩市の足軽だった伊藤家に養子に出されました。17歳の時、吉田松陰(よしだしょういん)が開いていた松下村塾に入りました。松下村塾と伊藤博文の旧宅は近所にあったと伝えられ、旧宅から通っていたと伝えられています。伊藤の萩市の旧宅は観光名所として残されています。

 

吉田松陰

 

 

松下村塾ではNHKのマイケル・サンデル教授の『白熱教室』のような身分にとらわれず生徒たちが自由に議論を戦わせる授業をしていました。白熱する議論を重ねていくと、塾生の中で注目されるようになります。井上馨は長州藩のエリートの武士で、本来なら当時の伊藤博文の身分とは大きく違うため出会うことはほとんどありませんでした。松下村塾で井上は伊藤博文と出会い、攘夷の決行について白熱した議論をしていました。

 

二人は攘夷の決行を議論していて、計画を思いつきました。その計画とは品川に建設中だったイギリスの公使館を焼き討ちすることでした。その計画について、イギリス公使館は焼け落ちたことから攘夷は成功しましたが、井上と伊藤は幕府から追われることになりました。幕府から追われることになった伊藤らはイギリスに密航します。

 

 

シャンハイ!ロンドン!サムライが世界を見る

 

2015年1月にNHKのテレビ番組「歴史悲話ヒストリア」で、『友がいれば、越えていける!』というタイトルで井上馨と伊藤博文の友情について紹介されていました。2人の友情が意外な場所で育まれました。その場所とはトイレでした。トイレで友情が育まれるとはどのようなことでしょうか。渡航費を工面してロンドンに渡航しましたが、井上らは上海で渡航目的を訪ねられます。

 

井上は渡航目的として「海軍(Navy)を知りたい」と言うのを誤って「Navigation(航海)を学びたい」と言いました。一人1000両という大金を払った優雅な船旅から水夫として帆を張るなど重労働で粗末な食事へと大きく変わりました。このような重労働で過酷な日々が続いたため、伊藤は体調を崩しました。体調を崩してから頻繁にトイレに行ったと言われています。水夫のトイレは船べりから海にせり出した板の上から直接海に排泄物を出さなければなりません。荒れて大きく揺れる船上では海に落ちてしまう可能性もありました。

 

トイレで海に落ちないように命綱をお互いの体に結んで伊藤の体を支えました。このことがきっかけで2人の友情関係が育まれました。ロンドンに着いた2人は、イギリスとのあまりの文明の差に愕然とします。攘夷派不可能だと知りましたが、ロンドンで四国連合艦隊が下関を攻撃することを知りました。2人は慌てて長州を救うために帰国しました。

 

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島津斉彬

 

 

大隈重信が見る、2人の性格の違い

 

大隈重信(おおくましげのぶ)が伊藤博文と井上馨について次のように性格の違いを評価しています。伊藤は制度や法律を立てる才能は優れているが、手続きや根回しが面倒で優れていないと大隈は評価しています。井上については頭の回転は速く臨機応変に対応でき、名誉などに頓着しなかったと、大隈は評価しています。一方で、井上は伊藤よりも年上であることや家格が上であることで、助け合ってきたことを踏まえ、割に会わない役回りに一生懸命働いたことで、大隈は犠牲になったことが多いと評価しています。

 

 

生涯の友人、明治を迎えた2人について!

明治を迎えた2人

 

明治を迎えた伊藤博文と井上馨について取り上げます。伊藤は乗っていた人力車が横から飛び出してきた馬車と衝突するという交通事故に遭いました。伊藤は頭から転落して歯を何本も折る怪我をしました。井上は腎臓が悪く、尿毒症から昏睡状態に陥り、危篤になりました。伊藤は韓国から駆けつけて10日間以上看病し、奇跡的に回復しました。

 

 

幕末ライターオフィス樋口の独り言

三国志ライター オフィス樋口

 

今回は伊藤博文と井上馨の友情について取り上げました。身分差が大きいものの同じ長州藩士で、松下村塾で議論していた仲間であったことから、元から友情関係ができていたと思っていた人がいたのかもしれません。歴史秘話ヒストリアを見ないと、伊藤と井上の友情のきっかけがトイレであったことを知ることができなかったと思います。歴史上の人物の意外な友情関係について調べてみたいと思います。

 

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幕末のエンジニア達

 

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自己紹介:フリーランスで予備校の講師をしています。 歴史が好きで、予備校では主に日本史を指導しています。 センター試験の点数を40点台から80点台に伸ばした実績があります。 好きな歴史人物:徳川慶喜(理由:多趣味であることが共通しているから)

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